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プロ野球はみだし録

陸上のオリンピアンがプロ野球へ。「守備も打撃もさせなきゃいいんだ」とはいえ……【プロ野球はみだし録】

 

仕掛けたのは名物オーナー


キャンプで走塁練習をする飯島


 1964年の東京オリンピックが無事に終わり、その次、68年のオリンピックの舞台はメキシコだった。この間、プロ野球では65年に巨人のV9がスタート。その秋に始まったのがドラフトだった。メキシコ五輪のあった68年のドラフトは豊作で、のちに名球会に名を連ねる選手が12球団の1位にズラリ。1位で近大の有藤通世を指名した東京(現在のロッテ)だが、9位で意外な人物を指名する。

 飯島秀雄。プロ野球選手の経歴のように書けば、茨城県庁からドラフト9位で外野手として東京へ入団した、となる。ただ、スポーツ選手ではあるが、野球の選手ではなく、メキシコ五輪に出場した陸上の選手。アマチュアリズムを謳っていたオリンピックの出場選手なわけだから、もちろんアマチュアのスポーツ選手だ。これを仕掛けたのは東京の永田雅一オーナーだった。なにかと派手な言動で“ラッパ”の異名もあった名物オーナーいわく、「100メートル走の日本代表が盗塁をしたら、みんな喜ぶ。守備もバッティングもさせなきゃいいんだ」。とはいえ、短距離走と野球の盗塁は勝手が違う。間違っても短距離走のフィナーレでスライディングすることはないだろう。ただ、こうした盗塁の難しいことを吹き飛ばすのが“ラッパ”たるゆえんだった。

 迎えた69年、東京はロッテとして再スタート。本拠地は当時、東京の下町で“光の球場”と呼ばれた東京スタジアムだったが、プロ野球の韋駄天たちを簡単に凌駕する“走塁のスペシャリスト”(?)の登場に東京スタジアムの観客も急増した。飯島は1年目に代走のみで61試合に出場したが、10盗塁。2年目も同じく代走だけで50試合に出場して、微増の12盗塁にとどまった。3年目は6試合の出場で1盗塁に終わり、オフに引退。通算23盗塁、17盗塁刺だった。一軍では1度も打席に立たず、守備にも就かず。二軍では1打席を経験して、3球三振だった。

 打撃や守備はともかく、飯島の脚力を考えれば、盗塁は物足りない数字に思えるかもしれない。ただ、これが盗塁に衰退の傾向も見える21世紀の数字だとしたら、そこそこの健闘にも思えてくる。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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