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プロ野球はみだし録

バックスクリーン3連発、新庄に敬遠サヨナラ打も…阪神戦は「楽しかった」槙原寛己【プロ野球はみだし録】

 

リリーフ転向の悲劇?



 日本ハムの監督に就任して以来、一挙手一投足が注目を集めている新庄剛志。その現役時代が振り返られるとき、真っ先に挙がってくるのは日本ハム時代ではなく、阪神で敬遠球をサヨナラ打にした1シーンだ。これは新庄のプロ10年目、1999年6月12日の巨人戦(甲子園)。その延長12回裏、外角高目への甘い敬遠球(?)を、待ち構えていた新庄へと投じてしまったのは槙原寛己だ。

 ただ、これ以上に阪神ファンにとって忘れられない槙原の1シーンは、日本一イヤーの“バックスクリーン3連発”ではないだろうか。85年4月17日、同じく甲子園で、クリーンアップのバース、掛布雅之岡田彰布がバックスクリーン方向へと3者連続本塁打。ここから阪神の快進撃が始まった印象も残すが、このときマウンドにいたのも槙原だった。昭和の終盤から平成の初期にかけての阪神の名場面で、阪神ファンを狂喜に導き、事あるごとに語り継がれてしまう槙原。とはいえ、もちろん単なる“やられ役”ではない。この2試合だけで阪神が苦手という印象も残すが、阪神戦は「相性もいいし、投げていて楽しかった」と槙原。「打たれた試合とはいえ、選手をやめてからも覚えていてもらえる試合があるのは光栄です」とも振り返っている。

 当時を知るファンには釈迦に説法になりそうだが、槙原はドラフト1位で82年に入団、一軍デビューを果たした翌83年には新人王に輝いた右腕で、このときプロ18年目、大ベテランといっていい存在だった。90年代は斎藤雅樹桑田真澄と先発三本柱を形成。誰をエースとするかは意見が分かれるところだろうが、先輩という点では三本柱の筆頭格で、スターターとしてのキャリアも申し分ない。

 ただ、98年のシーズン途中からはチーム事情でリリーフに。通算200勝の可能性を残した時点での転向でもあり、槙原も「調整が難しいし、失敗も意外と尾を引きました」と振り返っている。94年には平成で唯一、現時点では最後の完全試合を達成して、2001年で20年の現役生活をまっとうした槙原。この20年には、掛布らクリーンアップも新庄も届いていない。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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