「スパイクの金具は絶対に向けない」
古来、日本は外圧に弱いらしい。それは現在も変わっていないといわれる。圧力でなくてもいい。難しいことは分からないが、外国からのアクションが契機となって、世の中が変わっていくのだという。プロ野球の歴史で“革命”とされるのも、助っ人の登場によるものだ。
最初の“革命”は現在の2リーグ制となって2年目の1951年シーズン途中に始まったものだろう。6月に来日、巨人へ入団した助っ人は衝撃をもたらした。助っ人といってもハワイ出身の日系人。“ウォーリー”与那嶺要だ。アメリカ国籍の選手としては戦後の第1号でもある。
6月19日、名古屋(現在の
中日)との一戦がデビュー戦だったが、この試合から“革命”的だった。2点ビハインドで迎えた無死一、二塁から代打に立ってセーフティーバント。巨人は
樋笠一夫のサヨナラ本塁打で勝利したが、翌日の新聞に大きく取り上げられたのは与那嶺のバントだった。まだセーフティーバントが珍しかった時代だ。与那嶺は走塁も際だっていた。当時は巨漢の部類に入る与那嶺が相手の野手に激突するスライディングは賛否両論を巻き起こす。これで何度も乱闘になりかけたが、「僕は相手にケガをさせない。(スパイクの)金具を向けてスライディングなんて絶対にしないヨ」(与那嶺)。なぜなら「クリスチャンだからね」(同)だという。その後も和食に苦しめられながら(?)与那嶺は活躍を続ける。翌52年には規定打数に到達して打率.344。チームメートの“打撃の神様”
川上哲治と何度も首位打者を争って3度の戴冠、57年にはMVPに輝いている。
だが、川上が監督に就任した61年に解雇。「そんなの日本人ならありえないのに」と悔しがった。これで中日へ移籍して、2年で現役を引退。それでも、与那嶺の“革命”は終わっていなかった。
72年に中日の監督に就任。ヘッドコーチに据えた
近藤貞雄とともに投手分業制を推進。完投を重視する当時は革命的なことだった。「巨人なんて大したことない。負けるわけないネ」と繰り返し、V9という黄金時代にあった巨人へのナインの意識にも革命を促している。
文=犬企画マンホール 写真=BBM