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プロ野球はみだし録

“トレード”で「居心地がよかった」大洋へ移籍したレオンだが…自由契約でヤクルトへ【プロ野球はみだし録】

 

最後は「まだ日本でやりたかった」


ロッテ時代のレオン


 プロ野球の長い歴史で、チームの主軸を担いながらも退団を余儀なくされた選手は少なからずいる。こうした憂き目に遭うのは、たいていは助っ人だった。たとえ数字を残しても、年齢や年俸などの事情で自由契約となる。自由契約といえば字面はいいし、厳密には解雇と異なるが、解雇の一種のようなもの。近年は自由契約を経て他のチームへ移籍する助っ人も増えてきたが、20世紀、特に昭和の昔は、助っ人の不可解な退団に“使い捨て”のような印象があったのも事実だ。

 両リーグ、3チームで活躍したレオンも、そんな選手の1人だった。兄のレロン・リーがいたロッテで来日して、兄弟で活躍も、5年目の1982年オフに兄を残して大洋(現在のDeNA)へ移籍。82年は初めて打率3割を下回ったシーズンだったものの、22本塁打、78打点と、著しく低迷したわけではない。形としては内野手の斉藤巧とのトレードだったが、追われるような移籍だった。この82年に初の三冠王に輝いた落合博満や兄のリーもいたロッテと異なり、大洋では主に四番打者として活躍。のちにレオンも「もっとも居心地がよかったのは大洋」と振り返り、勝負強さと紳士的なキャラクターでファンにも愛された。

大洋時代のレオン


 85年には近藤貞雄監督の“裏返しコンバート”で一塁から慣れない三塁へ転向。高木豊加藤博一屋鋪要の“スーパーカー・トリオ”のあとを打って31本塁打、110打点と四番打者の重責を果たす。ただ、足で相手バッテリーを攪乱したトリオに“撹乱”された面もあり、走者のいる場面では前年の打率.323から打率.305と数字を落としたのも事実。とはいえ、それでも3割を超えており、シーズン打率.303よりもいい数字なのだが、そのオフにはヤクルトへ移籍となる。このときは自由契約だった。

ヤクルト時代のレオン


 それでもレオンの打棒は健在で、打率.319、34本塁打と大洋ラストイヤーを上回る数字を残している。だが、来日10年目にして8度目の打率3割をマークした翌87年オフに解雇、引退となった。「まだ日本でやりたかった。不完全燃焼だね」と悔しがったレオン。そんなレオンのラストシーンに不完全燃焼のファンも多かったはずだ。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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