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プロ野球回顧録

野球人生の大半が故障との闘いも…平成唯一の投手5冠を達成した「絶対的エース」は

 

すべての球種が超一級品


2000年代に打者を圧倒する投球を見せたソフトバンク・斉藤


 松坂大輔岩隈久志杉内俊哉ダルビッシュ有……2000年代のパ・リーグは個性あふれるエースがズラリとそろっていた。その中で「負けないエース」として、強烈な活躍を見せたのがダイエー、ソフトバンクの絶対的エースとして君臨した斉藤和巳だ。

 南京都高では2年秋からエースになり、甲子園出場はなし。だが、身長192センチから角度のある直球は大きな可能性を秘めていた。ダイエーにドラフト1位で入団。右肩痛に苦しみ02年までプロ7年間で9勝だったが、03年に覚醒する。当時プロ野球記録の16連勝を飾るなどパ・リーグで20勝3敗、防御率2.83。最多勝、最優秀防御率、最高勝率(.870)、沢村賞などタイトルを独占する。その中身も濃い。ライバルの西武から6勝を挙げてチームのリーグ優勝、日本一に貢献した。05年も開幕15連勝を飾るなど16勝1敗。「和巳が投げる日は負けない」と首脳陣に絶対的な信頼を寄せられた。翌06年も18勝5敗、防御率1.75で2度目の最多勝、最優秀防御率、最高勝率(.783)、沢村賞、初の最多奪三振(205)と投手5冠を達成する。

 アウトを1つ奪うたびに雄叫びを上げる。斉藤の投球スタイルはエースとしての執念がヒシヒシと伝わってきた。150キロ近い直球に、140キロ台の高速フォーク、キレ味鋭いスライダー、タイミングを外すカーブと変化球も超一級品だった。

 DeNAの左腕エース・今永昇太は、週刊ベースのコラムで斉藤へのあこがれを口にしている。

「僕が小・中学校のときは、地元・福岡ということもあり、斉藤和巳さんが好きでした。うなるような速球とスプリットで三振の山を築き、ほかの投手とはレベルの違いが感じられました。今ではトレンドになっている速い変化球をあのころから駆使しており、時代を先駆けた投球をしていたように感じます。左投げの僕とは異なり、右投げではありましたが、フォームもよくマネしました」

長身から投げ下ろす直球、変化球には勢いがあった


 30歳を迎える07年のシーズン。投手として脂がこれから乗り切る時期だったが、右肩の筋疲労で4月下旬にファーム降格する。3カ月後の7月に復帰以降も患部への負担を考え、中10日以上の登板間隔で球数も100球以内に制限。6勝3敗、防御率2.74と成績は落ちたが、翌年以降への影響を考えれば深刻視する見方は皆無に近かった。日本ハムとのCSファーストステージ初戦に先発したが4回5失点で敗戦投手に。このマウンドが現役最後の登板になるとは誰も想像できなかった。

「まったく後悔はない」


 08年1月に右肩関節唇修復手術を行うが、状態が良くならない。10年2月に右肩腱板修復手術を受けると、11年に支配下登録選手から外れ、リハビリ担当コーチに肩書きを変えて復帰を目指した。球団も復帰が可能となった時点で選手契約を再締結する方針を示していたが、その願いは叶わなかった。リハビリを5年以上懸命に続けていたが、13年7月に現役引退を決断する。

 全盛期の活躍がすさまじかったがゆえに、規定投球回をクリアしたのが4シーズンというのが少なく感じてしまう。斉藤は現役引退後にこう振り返っている。

「とても充実した時間でしたね。自分が結果を残せていたうんぬんではなく、そういう環境の中でやらせてもらっている、周りからそういう目で見てもらっていることがですね。そこに喜びを感じていたので、チームに必要とされているのなら耐えようと。

 僕はドラフト1位ではありますが、それほど注目されて入った選手じゃないですし、1年目は二軍でも投げていない。3年目には手術もして、ローテーションを守るまでに8年かかっているんです。だから一層、そういう環境、時間に幸せを感じていました。痛みを押して投げる、それは本当のプロとしてはクエスチョンが付くところですけど、でもそれは僕の生き方なんで。誰に非難されようと、何を言われようと、どう見られようと、自分のその時、その時に下してきた決断に、まったく後悔はないですね」

 通算成績150試合登板、79勝23敗、846奪三振、防御率3.33。勝率.775と「負けないエース」は、今後も平成を代表する右腕として語り継がれるだろう。

写真=BBM
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