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愛すべき助っ人たち

“大物メジャー・リーガー”のペピトーン 「マンホールでドブネズミを釣るのが俺の釣りさ」【愛すべき助っ人たち】

 

日米を股にかけたトラブルメーカーも


73年、シーズン途中にヤクルトへ入団したペピトーン


 プロ野球の歴史を彩る助っ人たちの個性は多彩だ。個性的、といえばネガティブな表現を避けられる、という書く側の都合もある。そんな意味で、もっとも個性的といえる助っ人の1人が、ヤクルトのジョー・ペピトーンだろう。

 ヤンキースで一塁手としてゴールドグラブ賞に3度も選ばれた大物メジャー・リーガー。ヤクルトは開幕から不振だったとはいえ、実力もファンからの支持もあったデイブ・ロバーツを1973年のシーズン途中に近鉄へ放出、このペピトーンを獲得した。だが、関係者は「もしペピトーンが日本で大活躍したなら、その監督の手腕は世界一だ」と語っていたという。守備の名手である一方、メジャー屈指のトラブルメーカーでもあったのだ。

 当時のヤクルト監督はプロ野球が誇る名将の三原脩監督。だが、その辣腕は発揮できなかった。いや、その余地すらなかったのかもしれない。よく練習をサボり、試合までサボった。ダブルヘッダー第1試合で4打数ノーヒットに終わると第2試合を前に帰ってしまう。「頭痛がひどい。マンションの入口が日本人サイズで低くて頭をぶつけた」から、と。三原監督は「1日も早く日本のかもいの高さに慣れてもらうしかない」とコメントしたという。

 翌日の試合も「睡眠不足、ビタミン不足、ガスのつけ方がわからず水風呂に入って風邪を引いた」等などで欠場した。そして9月12日に帰国、そのまま戻ってこなかったが、契約は2年。翌シーズンの開幕を前に、やはり来るだ来ないだの騒動となって、球団は「3月15日までに来なければクビ」と通告、ペピトーンは来日せず、退団となった。

 当時の週刊ベースボールをめくると、そんなペピトーンに辛辣な言葉も並んでいる。一方で、「俺はブルックリンの貧民街で生まれ育った。趣味は歌と釣りだが、ピアノはひけない。ガキのころは貧しくてピアノを習うには金持ちの家から盗んでこなければ不可能だったし、釣りと言ったってまともな釣りじゃない。マンホールに糸を垂らしてドブネズミを釣るのが俺の釣りさ」と語っていた、ともある。真実は歴史の中に眠る。

写真=BBM
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