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逆転野球人生

仁村薫、巨人で苦しんだ六大学の二刀流スターが、移籍先で星野中日のV1に貢献できた理由【逆転プロ野球人生】

 

誰もが順風満帆な野球人生を歩んでいくわけではない。目に見えない壁に阻まれながら、表舞台に出ることなく消えていく。しかし、一瞬のチャンスを逃さずにスポットライトを浴びる選手もいる。華麗なる逆転野球人生。運命が劇的に変わった男たちを中溝康隆氏がつづっていく。

素質を高く評価された若手時代


巨人時代の仁村


「将来の打撃の核、年間50本も可能だ」

 80年代前半の巨人で打撃の神様・川上哲治から、そう絶賛されたルーキーがいた。仁村薫である。早稲田大学で投手として通算17勝をあげる一方で、日米大学野球では代打決勝3ランを放つ打撃の評価も高く、いわば六大学の“二刀流”のスターだった。

 3年春の立大戦で3安打12奪三振の初登板初完封。さらには決勝打を自ら放つ衝撃デビューを飾り、「弟の七光りなんていわれたくなかったんです」とコメントを残したが、二男・徹、三男・健司はともに上尾高のエースとして甲子園を沸かせていた。川越商高で通算30ホーマーを放った長男の薫は甲子園には届かず、「早慶戦こそオレの甲子園」と進学したのだ。登板過多から秋には右ヒジを痛めてしまうが、阪神入りした2学年上の岡田彰布に代わる早大の顔と注目を集めた。

 しかし、皮肉にも、その高い知名度が81年のドラフト時に足枷となる。ヒジの怪我もあり、「今はプロでやっていく自信がない」と社会人野球の新日鉄室蘭の内定をもらっていたが、巨人がまさかの6位で指名。当時は有望選手が社会人行きや進学を表明していようが、どの球団もわずかな可能性に懸けて下位指名で抑えておくという手法が当たり前だった。なお、同年の西武ドラフト6位は社会人の熊谷組入社を表明していた工藤公康である。

81年のドラフトで巨人に6位指名され入団した[前列右が仁村]


 当然、仁村サイドは巨人の6位指名に混乱する。早大の宮崎康之監督は「(仁村は)秋、ひじをこわして投げられなかった、という計算かもしれませんが、かりにも神宮のスターですよ。ぼくは指名の話も聞いていなかったし、六位なんかで指名してくれるんだったら、されない方が、本人もすっきりしてよかったんだが……」(週刊サンケイ81年12月17日号)と困惑。父親は、「とんでもない話。ロクにあいさつにも来ないで、勝手に指名するとは失礼きわまりない」と突然の指名に激怒した。だが、弟たちからの兄のプロ入りへのあと押しもあり、仁村も最後は「親子の縁を切ってでも」と巨人入団を決めた。

 同期には槙原寛己吉村禎章村田真一ら高校生が多く、6位とはいえ六大学のスター選手だった仁村への注目度は、当時の巨人人気もあり他球団の1位選手を上回るほどだった。自ら打者専念を決め、春季キャンプでは多摩川に残り、柴田勲二軍打撃コーチとマン・ツーマンでスイッチヒッターに挑戦する。OBの青田昇は「ホームラン40本打つ素質があるのは彼をおいてない」とその素質を高く評価した。

自己最多の98試合出場も戦力外


 ルーキーイヤーの82年はイースタン・リーグの6月20日ヤクルト戦で実戦初の左打席に立ち、左翼ライナー。しかし、これは右打席で打撃不振に陥ったことによる応急処置で、両打ち挑戦はあくまで球団主導でのことだった。1年目は二軍で打率.219、4本塁打という成績に終わり、週べ83年1月24日号で仁村はこんな本音を語っている。

「たまたま、右打席でスランプになったため、左で打っただけ。そしたら、まわりが勝手にそんな雰囲気になってきた。それでもイースタンの試合で14、15打席ほど左で打って、ヒットは2本ぐらいかな……。早大の先輩でもある松本さんからも“スイッチは大変”と教えられ、もともとボクもその気はなし。で、今は右一本に絞ってます」

 さらに打撃の評価を高めた、日米大学野球で放った劇的なホームランについても、「二度とあんないい当たりを打てる自信がなくて悩んだ」という。要は巨人入り後の仁村は、首脳陣の意向と自分の目指す選手像にズレがあり、周囲のやたらと高い評価にも戸惑っていたわけだ。

 仁村自身は、「3年だけ待つ」と巨人入りを容認した養豚業を営む父親との約束に、「まず1年目は外野手らしい守備力をつける。2年目はプロの球についていけるバッティングを身につける。そして、3年目にデビュー」という3カ年計画を掲げていた。そして、3年目の夏に一軍でプロ初アーチを放ってみせるのだ。

 寮を出て目黒区のマンションを借り、禁煙を掲げて臨んだ4年目には、原辰徳の故障欠場で巡ってきた5月27日広島戦でのスタメン起用に2打席連続アーチで応える。「もう原さんの戻るポジションはありません」と血気盛んな仁村は、85年に自己最多の72試合に出て3本塁打を放った。

『週刊平凡』85年9月6日号では、早大野球部の1学年後輩で俳優の川野太郎と夜の銀座を歩くグラビアが掲載されている。NHK朝のテレビ小説『澪つくし』でブレイクした川野は、この年のオフに高輪プリンスホテルで行われた仁村の結婚式でも挨拶に立った。明るい性格で華やかな交友関係を持つ背番号38は、趣味の音楽鑑賞はクラシックからシャンソンの金子由香利まで幅広く聴き、定期購読雑誌は『財界』。「ボクは野球を天職だとは思ってないんですよ」なんてうそぶき、本棚には経済学や経営学の専門書が並ぶ異色のプロ野球選手でもあった。

 当時の巨人外野は主軸のクロマティや吉村、さらにはベテランの松本匡史や若手の駒田徳広らがひしめき合う激戦区だったが、披露宴で王監督が仁村に「代打に終わらぬよう、もっと焦れ」と檄を飛ばし、自宅では新妻がスポンジボールを投げティー打撃に付き合ってくれた。87年には主に代打と守備固めで自己最多の98試合に出場。8月には待望の子宝にも恵まれ、9月7日の大洋戦ではシーズン第1号を放った。だが、男の運命なんて一寸先はどうなるか分からない――。

兄を救ったのは中日でプレーする弟


中日では弟・徹とチームメートになった


 この87年オフに、仁村は巨人から戦力外通告を受けるのである。プロ6年目の打撃成績は、打率.212、1本塁打、8打点。レギュラーだけでなく、控え選手にも組織の新陳代謝のための世代交代は必要だ。98試合は、いわば28歳の仁村に与えられたラストチャンスでもあったのだ。そんな失意の仁村を救ったのは、中日でプレーする弟の徹だった。星野仙一監督は当初、仁村に対して外野の守備固めで獲得に興味は示したものの、兄が同チームにいたら弟の徹がやりにくくなることを危惧していたという。徹は87年に二塁レギュラーを獲得。11本塁打を放った若手のホープである。だが、徹は野球を諦めて家業を継ごうとしていた兄を自ら説得して入団を後押し、名古屋での住まい探しまで付き合った。お互いすぐ行き来できるよう車で10分の距離のマンションである。そうして87年12月15日、中日に「ニムラブラザーズ」が誕生する。

 巨人時代の仁村は、理論家の一方でウマの合わないコーチにはいっさい近寄ろうとしない頑固な一面があった。それを早大出身のエリートの驕りと見る向きもあったが、中日では一切のプライドを捨て、「ボクは星野監督に拾われた身。打たなくてはいけない義務があるんだ」と闘将好みのガッツマンへと変貌したのだ。誰よりも早く球場入りして、黙々と走り、特打ちに汗を流す。オープン戦では気持ちが空回りしてまったく打てなかったものの、二軍から這い上がり、石井昭男打撃コーチ補佐と二人三脚で打撃フォームを固め、少ない出場機会で結果を残して代打の切り札へと成り上がっていった。

 88年の星野中日は初Vに向けて首位争いを繰り広げていたが、徹が左ヒザの故障から復帰した6月以降、兄が打てば弟も打つニムラブラザーズの活躍がにわかに注目を集める。ツーショットで週べの巻頭カラーグラビアを飾り、『週刊文春』88年9月29日号では、「ドラゴンズ影のMVP・仁村兄弟物語 薫と徹「オレたちの闘い」」という特集記事まで掲載されている。崖っぷちの兄は移籍してすぐ、前所属チームをクビになったにもかかわらず、年俸を前年より100万円上げてくれた星野監督の心遣いを意気に感じて、中日の全員野球に乗り遅れまいとガムシャラにプレーした。

「巨人は毎日投手が変わるだけで、いつも同じ八人で野球をやっていた。そりゃ巨人にいるときも勝つとうれしかった。でもね、ロッカーに帰ってきてタバコを一服すうと、なぜか虚しくなったよ。いったい、オレ、きょうは何をやったんだろ。ただベンチにいただけじゃなかったか、とね。巨人では、ベンチから離れると叱られた。でもね、中日はベンチにいたら使ってくれない。さあ出番だ、とベンチ裏で素振りをやり、気合を高めていかないと使ってくれないんだ」(週刊文春88年9月29日号)

 巨人時代は、ほとんど左投手専門で、右投手が投げると素振りよりも、ベンチに残って声を出せと命じられた。オレは声出しをするためにプロになったわけじゃないぞ――。それが、いまや首位チームで、ときにスタメンでお呼びがかかる。プロ入り以来最高のシーズンを過ごした88年は、76試合で打率.287、7本塁打、24打点というキャリアハイの成績を残し星野中日の初Vに貢献してみせた。他の選手の前では弟の徹とはあえて距離を置き、遠征先でも別行動をとるようにしたが、グラウンド上の乱闘となると真っ先に弟の助けにかけつける兄の姿があった。

 この2年後、31歳の仁村は早すぎると惜しまれながら、90年限りで現役引退を決意。本拠地最終戦の巨人戦の試合後、背番号31はナインから惜別の胴上げで送り出され、名古屋東急ホテルで開催された「送る会」には星野監督を筆頭に500人もの関係者が集結した。プロ通算15本塁打だが、記録より、記憶に残る明るいキャラクターは地元ファンにも愛され、引退後も名古屋テレビの情報番組でコメンテーター役を務めるほどだった。

 巨人で選手生命が終わりかけるも、名古屋で生き返った29歳での逆転野球人生。88年夏、新天地でのV争いの渦中に仁村はこんな言葉を残している。

 中日に来て、オレ、生きてるなって思うよ――。

文=中溝康隆 写真=BBM
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