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冷静と情熱の野球人 大島康徳の負くっか魂!!

大島康徳コラム第14回「伸び悩んだ時期も、自信だけはあり!」

 

72年の僕。とにかく無我夢中でしたね


兆しがあった後年の異名「隔年の大島」


 みなさんにも聴いていただけたでしょうか。

 5月18日、東京ドームでの巨人-ヤクルト戦のラジオ解説です。ブログでも少し書いていますが、本当に楽しかったです。

 球場にも早めに行って、練習からじっくり見させてもらいました。ご無沙汰にしている、いろいろな人にも会いましたが、みな「すごく元気そうですね」と声をかけてくれます。手術から半年で体重も10キロ増。ベストにあと3キロまで戻りました。いまはちょっと丸顔ですが、もう少ししたら四角い“ベース顏”に戻るのかな。昔は、少し気にしてましたが、いまはなんだか楽しみです。

 試合はヤクルトの勝利。巨人・高橋由伸監督は、まだ若いし、就任2年目です。それでも巨人という球団では優勝を求められる。それもまた、プロの世界の厳しさです。僕の最初の監督、水原茂さんも高橋監督と同じ慶大出身で、やはり長く巨人の監督をやられましたが、最後の1960年は、リーグ6連覇を逃し、2位にもかかわらずの辞任とか。勝敗だけじゃなく、フロントとモメていたのも理由だったそうですが、当時の巨人は大変な球団だったんですね。

 水原さんと同じタイミングで巨人を去ったのが、水原さんの後、コーチからドラゴンズの監督に昇格した与那嶺要さん、愛称ウォーリーです。現役時代は巨人のスーパースターで、3度首位打者に輝きながら、自由契約となって中日に移籍したそうです。それもあってか、打倒巨人に、すごく燃えていました。

 ウォーリー(親愛の情を込め、以後はこの呼び方でいかせていただきます)の監督1年目の72年は、僕がフルシーズン一軍に定着した年でもあります。まだ21歳ですし、相変わらずガムシャラにやっていただけですけどね。当時、自分のエラーで負けた後、人目もはばからず大泣きしたという記事があったそうです。まったく覚えていませんが、そんなことがあっても不思議じゃありません。そのくらい純粋でした。

 ただ、そうは言いながらも、根拠のない自信は健在と言いますか、つっかえ棒が必要なほど、そっくり返っていた時代は続いています。たぶん、それもあってでしょうが、とにかく成績にムラがあった。スタメンで4三振、次の日、代打に回ると打つ、それでまたスタメンになると打てない。これをずっと繰り返していました。

 少し話が飛びますが、僕は、76年に・・・

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中日、日本ハムで主軸打者として活躍し、日本ハムでは監督も務めた大島康徳氏が自らの一風変わった野球人生を時に冷静に、時に熱く振り返る連載コラム。

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