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冷静と情熱の野球人 大島康徳の負くっか魂!!

大島康徳コラム第16回「ウォーリーとの衝突」

 

73年は、バッティングについていろいろ悩みましたが、あとで振り返ると、いい経験だったと思います


日本人野手メジャー第1号?


 今回は、前々回で触れた僕の初めてのアメリカ経験からいきましょう。

 1972年秋、サンフランシスコ・ジャイアンツの教育リーグにウォーリー(与那嶺要監督)、森下正夫コーチ、谷沢健一さん、島谷金二さんと行ったんですよ。

 向こうの連中は体もでかいし、打球もすごい。一番驚いたのは、肩の強さです。外野からの返球はすさまじかったなあ。コントロールはデタラメなヤツもたくさんいましたが、身体能力の高さに圧倒されました。すぐメジャーに上がったけど、のちにドジャースの三塁手として活躍するロン・セイもいましたね。

 そこで僕のすさまじいスイングを見て、メジャー関係者が色めき立ちましてね。「ぜひウチに来てくれ」と続々。お、このまま行けば、野手の日本人メジャー第1号か……?

 すいません、そんなことはまったくありませんでした。途中でかかとをケガしてしまい、半分以上は帯同しながら治療です。ロッカールームにあったバブルのバスにずっと入っていました。情けないね。

 最初は、しっかり練習もさせてもらいましたよ。向こうの打撃コーチには「バットを寝かせて打ちなさい」と言われました。名前は忘れたけど、ニックネームは覚えています。“ビッグノーズ”。要は、大きな鼻ですね。現役時代は有名な選手だったらしいですよ。

 YES! と言いながらも葛藤はありました。僕は、三振しても拍手が起こるようなフルスイングが特徴だったし、自慢でもあった。実際、当たれば遠くまで飛びますしね。ただ、確かに確率は悪い。以前からウォーリーには「コンパクトに振ってもホームランも出るし、アベレージも上がるよ」と言われていました。

 バットを寝かすということについて・・・

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中日、日本ハムで主軸打者として活躍し、日本ハムでは監督も務めた大島康徳氏が自らの一風変わった野球人生を時に冷静に、時に熱く振り返る連載コラム。

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