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プロ野球20世紀・不屈の物語

「騒ぐなら騒げ」……阪急を日本一に導いた足立光宏の“柳に風”/プロ野球20世紀・不屈の物語【1976年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

「シンカーのシンカやね」(?)


阪急・足立


 就任1年目の長嶋茂雄監督が率いる巨人が初の最下位から一転、リーグ優勝へと駆け上がった1976年については紹介したばかりだ。見たこともない弱い巨人からの復活の逆転劇にファンも激増。日本シリーズ、特に巨人の本拠地でもある後楽園球場に詰めかけたファンの多くは、巨人の日本一が見たかったことだろう。相手はV9時代に同じく黄金時代を迎えた阪急。初のリーグ優勝が67年で、以降5度も激突してきたチームだ。ただ、この間1度も阪急は巨人に勝っていない。巨人が最下位に沈んだ75年に初の日本一となった阪急にも、巨人に勝ってこそ本当の日本一という雰囲気も漂い、絶対に負けられない頂上決戦だった。

 そんな阪急は第1戦(後楽園)から3連勝。ある意味、巨人にとっては逆転劇の舞台が整う。そこから巨人は3連勝。第6戦(後楽園)は7点ビハインドから延長戦に持ち込んでのサヨナラ劇で、それまでの2年間を凝縮したような日本シリーズに巨人ファンの盛り上がりはピークに達していた。迎えた第7戦(後楽園)。阪急の先発マウンドを託された足立光宏は、スタンドのほとんどを埋め尽くした4万人を超える巨人ファンの“総攻撃”を受ける。

 だが、足立は平然としていた。「騒ぐなら騒げ」とつぶやきながら、普段どおりに投げ始める。このとき、足立はプロ18年目。それまでも波乱万丈だった。小学生のときから投手だったが、中学3年でヒジの軟骨が出て、1年ほど野球を離れたという。復帰して上から投げると痛みがあったため、腕を下げてみた。不屈のサブマリンが誕生した瞬間だ。高校では男子の少ない学校だったこともあって目立った結果は残せず、大阪大丸で鐘紡の補強選手として都市対抗に出場したことでプロの目に留まる。

 59年に阪急へ。62年にゲーム17奪三振のプロ野球新記録で自信をつけたが、まだエースの座は遠かった。64年に初の2ケタ13勝も負け越し。翌65年に15勝を挙げて勝ち越すと、そこからは着実に勝ち星を増やし、67年に20勝、最優秀防御率となる防御率1.75で初優勝に貢献し、MVPに輝いた。だが、翌68年は肩痛で離脱し、ゼロ勝。その翌69年も33試合に登板したが、2勝に終わっている。

 ただ、日本シリーズでの強さは別格だった。67年から3年連続で阪急は2勝4敗で巨人に敗れているが、肩痛の68年を除いて、すべての勝ち星は足立が挙げたものだ。ペナントレースでも71年に復活の19勝。ストレートで押す投球から、打たせて取るスタイルに変貌していた。武器となったのは魔球とも言われたシンカー。バットの芯を外して凡打の山を築き、「それがシンカーのシンカ(真価)やね」(足立)なのだとか。

「そら平気じゃないですけど(笑)」


76年の日本シリーズで巨人を下して胴上げされる足立


 71年の日本シリーズでは珍しく(?)ゼロ勝だったが、翌72年は1勝。阪急も1勝4敗だったから、やはり足立の勝ち星のみだった。初めて広島と激突した75年は阪急4勝0敗、足立はゼロ勝。そして迎えたのが76年の第7戦だった。試合は3回表に阪急が1点を先制。足立は4回裏まで1四球のみの好投も、5回裏に高田繁のソロで同点とされ、6回裏には守備の乱れもあって逆転を許すが、一死満塁からの併殺でピンチを脱する。続く7回表に阪急は森本潔の2ランで逆転、8回表には福本豊のソロでダメ押し。そのまま足立は完投、四面楚歌ともいえる後楽園で胴上げされて宙に舞った。

 のちに、このときのことを足立は振り返っている。「まあ、そら平気じゃないですけど(笑)、割と平常心でしたね。巨人ファンの声援は、うるさいな、と気にしてしまうと、自分のピッチングができなくなる。聞こえてるけど、なんか知らん大きな音、という感じでね」。むしろ足立ほどの歴戦の猛者でも「平気じゃない」と言っていることに驚かされる。ただ、足立は乗り切り、勝った。「騒ぐなら騒げ」。なにかと悪意に囲まれやすい昨今も、この言葉は有効そうだ。

 その後、右ヒザの水が慢性的にたまるようになりながらも、足立は80年までプレーを続けた。現役22年。78年の日本シリーズについては、また別の機会に。

文=犬企画マンホール 写真=BBM


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