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第48回 時代を超えたホームラン打者・中村剛也 vs 外国人打者ばかりが目立つホームランダービー|「対決」で振り返るプロ野球史

 

“ラビットボール”にはそれなりの効用。次の飛ばないボール時代を経て259発の時代に


“おかわり君”こと西武中村剛也は、時代とボールの違いを問題としない本物のホームラン打者だ


 プロ野球は“投高打低”の時代と“打高投低”の時代が交互にやってくる歴史だったのだが、それはほとんどの時代でボールの質が関係している。

 戦前は、戦争による物資不足で粗悪な飛ばないボールが多くなり、どんどん投高になり、ホームランは、実に貴重なものになっていった。

 戦後は一転、ホームランの時代に。これは「ホームランこそ野球の華」というアメリカの考えに影響を受けたもので(日本は事実上、51年までアメリカに占拠されていた。すべてはアメリカにならえで、これが一番安全な対処法だった)、日系二世の阪神若林忠志監督兼投手が、「ホームランが出ないプロ野球はつまらない」と47年に甲子園球場にラッキーゾーンを設けたのも、そういう流れの中でのことだったろう。この発想の行き着いた先は、あのラビットボールの採用。

 その功罪の判定はなかなか難しいのだが、筆者などは、あの“ホームランの時代”があったからこそ、戦後のプロ野球が隆盛に向かったのだと考えている。先日、元中日の大エース、杉下茂氏に話を聞いたとき、元祖フォークボーラーは意外なことを言った。

 杉下氏は49年のプロ入りだからラビットボール元年の入団。東京六大学の飛ばないボールでの広い神宮球場から、飛ぶボールでの狭い中日球場や後楽園球場へ。これは面食らったと思うのだが、「そんなことないんだ。ラビットボールの握った感触は素晴らしくいいんだよ。僕には投げやすかったなあ」。一流投手には、ラビットボールはさほど問題にならなかったようで、ラビットボールは50年まで採用されたが、別所毅彦藤本英雄(ともに巨人)、柚木進(南海)、米川泰夫(東急)といったエース級は前年の49年より勝ち星を伸ばしている(セ、パ両リーグに分かれて、弱小チームが増えたことも影響しているが)。

 51年からは飛ばないボールに戻ったが、50年代半ばから60年代初めにあまりの投高状態になったために(例えば防御率は55年巨人1.75、56年西鉄1.87、同阪神1.77、62年阪神2.03など)、徐々に飛ぶボールの使用にシフト。70年代半ばからはホームランがどんどん増え始め、78年に広島が史上初の200本台(205)を記録。80年には近鉄が239本(この年、西武、阪急も200本台)。さすがにこのあたりから飛び過ぎが問題になり、当時の下田武三コミッショナーが規制に乗り出した。以後は80年のような状態はなくなった。さらに球場のサイズが両翼100メートル前後に広がったのも大きかった。

 しかし、それも世紀の変わり目あたりから怪しくなった。00年に巨人が203本、01年には近鉄211本、ダイエーが203本。04年の巨人はついに259本まで行ってしまった。04年は、12球団で防御率3点台はわずか1チーム。他はすべて4点台から5点台。5点取っても勝てるかどうかという野球になってしまった。

あまりの本塁打濫造に“飛ばない統一球”の登場となったが、日本人打者の非力を証明しただけ


 ここから11、12年の“飛ばない統一球”の使用となるのだが、途端にホームランが激減。10年に12球団最多の226本の巨人は108本に半減。他チームも同様で、12年には、とうとう100本を超える球団が消えてしまった。

 そこでまた揺り戻しがあって13年から反発力のあるボールに戻ったのだが、戻っても、13、14年と日本人打者は、ホームラン打者の指標となる40本を超えることはできなかった。しかし、ヤクルトバレンティンは60本をマーク(13年)。バレンティンは来日の11年に31本、12年も31本(いずれも本塁打王)、飛ばないボールの2年間で30本以上を2年続けたのはバレンティンのみ。14年は、広島・エルドレッドが37本で本塁打王。パ・リーグも西武・メヒアがわずか102試合で34本を打ちキングに。日本人では同じ西武の中村剛也が34本でタイトルを分け合い面目を保った。

 ここで結論。外国人打者はボールが飛ぼうが飛ぶまいが、本塁打王を獲る本当のパワーを持っているが、日本人打者は飛ばないボールになると、途端に打てなくなる。これは本当のパワーがない証拠。あまりに当たり前でつまらない結論だが、日本人打者がメジャーでなかなか長打を打てないのは仕方のないことなのだ。ここだけは、何十年も前とまったく変わっていない。

 しかし、例外的な打者がいる。それが先の中村だ。“おかわり君”は、飛ばないボールの11年に、ロッテ1球団(46本)分より多い48本を打ち、翌年も27本で連続キング。13年は故障で4本だったが、復帰した今年は111試合で34発。144試合フルに出たら40本台は間違いなかったハズだ。

 そこでもう1つの結論。プロ野球は、中村のような、時代とボールの違いを超越したスーパー打者を何人も生み出すこと、これが、絶対に必要なのだ。巨人・王貞治は、飛ばないボールの時代と飛ぶボールの時代が交互にやってくる中、コンスタントに40本以上を打ち、13年連続本塁打王に輝いた。まあ、南海時代の野村克也も王に準ずるコンスタントな本数をマークした打者と言えるだろう。

 冒頭に「ホームランこそ野球の華」と書いたが、「華」とするためには、多くの本数を長年にわたって打ち続ける打者がいてこそ。1、2年はファンを驚かせたがそれだけ、という打者は、まさに「一発屋」。しかし、王、野村が打ちまくっているころは、田淵幸一(阪神ほか)、門田博光(南海ほか)、山本浩二(広島)といった打者が次々に続いた。王、野村が舞台から退場するころに落合博満(ロッテほか)が現れた。その時代がすなわち、プロ野球の最盛期だったと筆者は考える。

“おかわり君”がどこまで力を持続し、それに続くホームラン打者が、どれだけ現れるか。それが現在のプロ野球の最大の課題なのだ。

文=大内隆雄

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