物干し竿と呼ばれた長さ38インチ(約97センチ)の長尺バットを振り回し、1949年に前人未到の46本塁打。守っては三塁線の強いゴロを素手でキャッチし、走っては本塁上のクロスプレーで猛烈な体当たり。“初代ミスタータイガース”藤村富美男のダイナミックなアクションは、黎明期のプロ野球でファンの視線をくぎ付けにした。
そんなスタープレーヤーが兼任監督となったのは55年シーズン途中。1リーグ時代の46年に務めて以来2度目となる同ポストで、藤村は持ち前のショーマンシップを存分に発揮した。
選手としてのピークはすでに過ぎていたが、勝負どころでは「代打、ワシじゃ」と自ら打席に立ち、56年には51試合に出場し4本塁打。6月24日の
広島戦(甲子園)では1点ビハインドの9回裏二死から、代打逆転満塁サヨナラ本塁打の離れ業をやってのけた。
だが、そのようなスタンドプレーや、やたらとエンドランを仕掛けるワンパターンな采配などがナインの反感を買い、同年オフ、選手から排斥運動が起こる。結局、翌年は監督業に専念し、その年限りでプレーイングマネジャーの任を解かれることになった。
藤村は後にこの騒動を「思い出すとゾッとする。悪夢のようだった」と振り返り「監督というものを通して初めて人間としての苦悩を知った」と語っている。自らのスター性と指揮官という立場の間で苦しんだ3年間だった。
ただ、その存在が後に球界の顔となる
長嶋茂雄や
村山実らに影響を与えたのも確か。藤村のショーマンシップはプロ野球発展の礎となったのである。
写真=BBM