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【岡田彰布のそらそうよ】「オレは星野さんに一度も怒られたことはなかったわ。星野さんの財産があったから05年は監督として優勝できたよ」

 

01年オフに言われた言葉は「オレのあとはお前やから」


 携帯電話がひっきりなしに鳴る。メールがどんどん届く。一体、何が起きたんや……。実はオレ、そのとき、海外にいた。メールを開く。そこには「星野さんが亡くなった」の文字。エッ、としか声が出なかった。球界関係者、マスコミ関係者が知らせてくれたわけだが、それでも信じることはできなかった。

 まさか……の思いやった。帰国して、1月15日、「天地会」に出席。1985年の日本一と、その後の低迷期をともに戦った仲間との集い。みんながそろったところで、黙とう……。誰もがまだ信じられない顔つきだった。

 星野仙一さんが逝った。昨年、星野さんの殿堂入り記念パーティーで、喫煙室で会ったのが最後になった。「オウ、オカ。久しぶり。きょうはありがとうな」。短い会話だったが、体調の悪さは感じ取れなかったわ。

 現役時代、対戦したことはあったけど、やはり阪神の監督で来られてからが濃い時間だった。あれは2001年のオフ。オレは二軍監督で、当時、阪神に在籍していた上坂(上坂太一郎)君の結婚披露宴に出ていた。そこに現れたのが星野さんやった。まだ阪神監督の正式発表がされていないとき。サプライズやったし、会場はざわめいていた。

 そこで星野さんに話しかけられた。「監督になる。だからお前には力になってもらいたいんや。二軍を頼む。常に連絡をくれ。頼んだぞ」。まさに行動力の人。迫力があったし、熱もスゴかった。そして、こうも告げられた。「オレのあとはお前やからな」……。

 2002年、星野さんは正式に阪神の監督に就任した。オレは二軍監督。何とか若い選手を一軍に送り込むために指導した。連絡も密にした。こちらの報告を聞き、実に穏やかに話をした。怒ったり、声を荒げたりすることは、一切なかった。

 1年目は4位。そこから猛烈なチーム改革が進んだ。選手補強もそうやったし、コーチ陣も個性豊かなメンバーになった。ヘッドコーチが島野(島野育夫)さん、打撃コーチが田淵(田淵幸一)さん、投手コーチが佐藤(佐藤義則)さんで、達川(達川光男)さん、西本(西本聖)さん、そこにオレも呼ばれた。03年から一軍コーチへ。オレはてっきり打撃コーチをやるもんやと思っていた。ところが星野さんの考えは違っていた。「オカ、お前には内野の守備を任す。それと三塁コーチに立ってもらうから」。守備コーチは初めてやし、コーチボックスに立つのも初めて。戸惑いがあったわ。それを察してか、星野さんはこうも言った。「好きなようにやれ。お前がしたいことをやればいいんやからな」と告げられた。

 そこから始まった進撃の03年。ホンマ、強かったわ。早々と優勝マジックを点灯させ、ゴールに向け真っしぐら。でも、その舞台裏は壮絶やった。試合中、それは攻撃時にだ。オレは三塁コーチボックスからベンチを見つめるのだが、そこに星野さんの姿はなかった。「どうしたんや?」と思っていたら、星野さん、体調が悪くなり、ベンチ裏で倒れ込んでいたのである。

 負けても、勝っても、コーチ会議では厳しい言葉を飛ばしていた。でも不思議なことにオレは一度も怒鳴られたことはない。三塁コーチとして、判断ミスでホームアウト……というケースが何度かあった。試合後、星野さんは「思い切りを失うなよ。自分の判断でやっていけばいいからな」と怒鳴るどころか、背中を押してくれた。

優勝が見えてきた中での03年9月。星野さん[左]に04年から監督をしろ、と言われた。その後5年間もできたのも03年に監督としてのいろいろなことを教えてもらったからやわ/写真=BBM



いまでもオレの中では元気な星野さんしかいない


 先にも書いたように、個性が強いコーチ陣やったから、正直、バラバラ感はあった。でも勝ち続け、優勝が現実のものとして近づいてくると、みんなが前を向き、目標に向かってひとつになった。ホンマ、あのときはそんな感じやった。その先頭に立つ星野さん……。でも、体調が思わしくないことは、コーチのみんなが分かっていたんやないかな。

 リーグ優勝が決まる直前、9月やった。オレは星野さんに呼ばれた。何事なのか? 星野さんの前に立つ。「オカよ、オレは監督を辞める。次はお前や。お前がやれ。分かったか」。体調がよくないのは気がついていたけど、優勝するのに、どうして辞めるのか。相当、悪かったのかな。オレは「分かりました」と返したけど、この2人の会話は誰にもしゃべらなかった。

 そして、あの優勝よ。うれしかったよ。みんなで星野さんを胴上げすることができた喜び。18年ぶりということもあって、ホンマ、みんなで泣き笑いした。

 日本シリーズは3勝3敗となり、福岡での決戦。星野さんにとって、阪神での最後のゲームやし、日本一がかかっている。でも……、負けた。そして直後、星野さんの辞任。なんか嵐のような1年やった。最後、日本一にできなかった申し訳なさが残った。日本一にしたかった。最後はその思いしか残っていなかったな。

 結局、オレは星野さんのあとを引き継ぐことになり、以降、5年間、阪神の監督を務めることになった。幸い05年にリーグ優勝を果たすことができたけど、これも星野さんの築いた財産があったからこそ。そこにオレなりの考えを貫いて、優勝までもってこられた。ホンマ、感謝しかない。

 監督として多くのことを教えてもらった。それを痛感した03年やった。その星野さんが天国に召された。若過ぎるやろ。オレには元気な星野さん、このイメージしかない。

 それにしても人生ははかない。あのとき、陰でチームを支えていた島野さんが亡くなり、そして星野さんが……。はかなさが身にしみる。まだまだ志半ば。そんな星野さんの思いを振り返れば、無念だっただろうと思う。(デイリースポーツ評論家)

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