4月18日、阪神、東京(ロッテ)、大洋の3球団で通算320勝を挙げた小山正明さんが急性心不全で死去。90歳だった。圧巻の制球力から『精密機械』とも言われた大投手だ。 
精密機械と言われた正確無比なコントロールで1962年に27勝を挙げ阪神のリーグ優勝に貢献した
作り上げた「精密機械」
3月11日、小山正明さんに電話取材をする機会があった(小社刊『阪神タイガース90年史』)。お会いしてと思ったのだが、「今はちょっと歯が悪いんで電話がいいな」と言われ、少しモゴモゴしながら話してくれた。
吉田義男さん、
三宅秀史さん、
山本哲也さんと阪神同期入団の方々の話のあと、「吉田さんが亡くなり(2月3日)、小山さんが最後の語り部ですね」と言うと「そうやな。みんな亡くなった。寂しい限りや」と答えた。
小さいころから阪神ファンで、高砂高3年時、テストを受けての入団だった。球は速いがノーコンで、「最初は打撃投手ばかりだったが、ボール球が続くと先輩に怒鳴り倒されていた」と言う。怒られまいとフォームを研究し、球数を投げて制球を磨いたことがプラスとなり、1年目の1953年から5勝、2年目には11勝と順風満帆のスタートを切る。57年から先発に定着し、背番号を47にした58年からは3年連続20勝。そのうち59年には天覧試合の先発投手を務め、62年には
村山実とのダブルエースとして27勝を挙げ阪神の2リーグ制初優勝に貢献した。同年の5試合連続完封、13試合完封勝利は今もセ・リーグ記録として残っている。
武器は快速球と「精密機械」とも「針の穴をも通す」とも言われた制球力だ。ただ、インタビューで秘訣(ひけつ)を聞くと、いつも導火線になった。「今のピッチャーはコントロールが悪過ぎる。球を放らないからですよ。肩は消耗品で、球数は投げないほうがいいとか、なんちゅうことを言うのや」と言葉が荒っぽくなり、次は「走り込みが足らん」となる。
根性論ではない。正しいフォームを覚え込ませるためには投げ込みと、下半身を鍛えなければいけないという信念からだ。「僕はテークバックは大きいが頭の位置は動かず、踏み出した足がハンコを押したようにきっちり同じ場所に落ちた。下半身がしっかりしているから投球動作にぶれがないんです」と言い、さらに「ほんまかとよく言われたけど、プレーボールがかかってからの全球を覚えていた。130球前後すべてね。碁や将棋の名人と同じ。全球意図があって投げているから覚えているんです」とも話していた。
63年オフには“世紀の大トレード”と言われた大毎(東京)オリオンズの四番・
山内一弘との交換トレード。名物オーナー、永田雅一さんにかわいがられ、競走馬をプレゼントすると言われたこともあったが、「競馬をよう知らんかったから『馬もろても家に飼うとこあらへん』と断った。永田さんは腹を抱えて笑いおったよ」と愉快そうに話していた。
オリオンズではホームラン量産球場と言われた東京スタジアムが本拠地となり、阪神時代の高めの速球勝負から低めにパームボールを駆使するスタイルに変え、64年は30勝で初の最多勝にも輝く。73年には大洋に移籍し、同年限りで引退。史上3位の通算320勝を積み上げ、史上唯一セ、パ両リーグで100勝を挙げた。枚挙にいとまのない偉大な記録については「一番の誇りは、そういう数字が出るだけ度重なる登板ができたということや。よう投げたよ」と言っていた。
前述のインタビューで阪神の後輩たちへのメッセージを聞くと、いつも思っていることなのだろう。もごもごした口調が変わり、よどみなく答えた。
「自分たちが素晴らしい環境の下で野球をやれているというのは忘れないようにしてほしいね。タイガースの先人がいろいろな苦労を重ねて今日がある。甲子園の看板を守り続けてきたというのを忘れずに、今後ますます頑張ってほしい」
最後、「今度は東京スタジアムの話を聞かせてください」と言うと「いつでもどうぞ」と答えてくれた。(井口英規)
PROFILE こやま・まさあき●1934年7月28日生まれ。2025年4月18日死去。兵庫県出身。高砂高から53年阪神に入団し、56年から12年連続2ケタ勝利、うち20勝超えは7回だった。優勝した62年には27勝を挙げ、沢村賞。64年東京(ロッテ)に移籍し、同年23勝で最多勝、73年大洋に移籍し、同年限りで現役を引退した。2001年殿堂入り。通算成績856試合登板、320勝232敗、防御率2.45。