夢に見たプロ野球の世界の現実は厳しく、高卒入団から6年でソフトバンクを退団した。そこで若者に手を差し伸べたのが、ヤクルトだった。舞台をセ・リーグに移し戦った昨季の経験を手に、移籍2年目は結果で感謝の気持ちを表していく。 文=小林篤 写真=宮原和也、BBM 徹底した師匠の助言
変化球を強振すると、打球は神宮球場の左翼席に飛び込んだ。代打起用で放った移籍後初の本塁打。ダイヤモンドを一周し、ベンチ前でナインの祝福を受けると、最後は右翼席のファンへ向けて、右拳を下から突き上げ
「ますお~!」と叫びポーズを決めた。
「ヤクルトスワローズの一員として、また来年野球ができることがすごくうれしく、感謝の気持ちでいっぱいです」 2024年11月26日、契約更改交渉を終えた増田珠は、記者からの「どんなシーズンだったか」という質問に対して、本題に入る前に感謝の想いを口にした。ユニフォームを着てプレーできることの喜び、ありがたみが身に染みているからこその言葉だった。
入れ替わりの激しいプロ野球の世界。非情な通告は突然やってきた。23年10月28日、6年間在籍したソフトバンクから来季契約を結ばない旨を通告された。同年はキャリアハイの35試合に出場。一軍帯同期間も増え、これからというタイミングでの連絡だった。驚きはあったが、頭の片隅には
「あるかもな」という思いもあったと当時を振り返る。打率.182、代打起用では15打数無安打。機会を与えられながらも結果を残すことができなかった。ペナント最終盤、Aクラス争いも佳境を迎えた9月30日には3度目の登録抹消。結果がすべての世界。事態を受け止められる冷静な自分もいた。
現役続行を模索することになる増田にかかってきた1本の電話。
「戦力外の知らせがあって2日後くらいですかね。『獲る可能性があります』というような言葉をいただいて」。電話口はヤクルト球団の編成担当だった。だが、あくまで可能性であり、獲得の場合は再連絡、獲得見送りならば連絡はしないという話が続いた。
「本当に(電話が)あるんかな」 去就はどうなるのか。頭の中は不安が占め、トレーニングに励んでいても集中できない毎日が続く。
再びの電話が鳴ったのは1度目の連絡から10日ほどたったころだった。ヤクルトは11月17日に獲得を正式発表。28日には同じくソフトバンクを自由契約となった
嘉弥真新也、
楽天を自由契約となった
西川遥輝とともに入団会見に出席した。
「元気を出してチームを盛り上げられるよう、勝負強い打撃で貢献できるように頑張りたい」と抱負を語り、再スタートを切った。
南国の風に活気ある声が乗る。24年2月、ヤクルト一軍の春季キャンプ地である沖縄・浦添。メイングラウンドには大きな声を出す増田の姿があった。新天地で際立つ声の存在感は、師と仰ぐ先輩の助言からきたものだった。
「『無理ってなるぐらいまで、尽きるまで全力で声を出しておけ』と言われて。それをやってみようと」 キャンプを目前に控えた1月の自主トレ期間中、増田にそう進言したのは
松田宣浩(元ソフトバンクほか)だった。松田の『熱男』ならぬ『増男(ますお)』の愛称で、ソフトバンク時代には後継者として期待されていた後輩へ贈った金言。現役最終年(23年)には
巨人に移籍した経験を持つ先輩からの言葉を忠実に守ると、チームになじむのにそう時間はかからなかった。また、
「溶け込みやすい雰囲気をつくってもらえた」と当時野手最年長、
青木宣親(現ヤクルトGM補佐)の気遣いも新天地で緊張続きの増田の心を支えた。
周囲のサポートで歩み出した移籍1年目の24年、結果的にキャリアハイを更新する52試合に出場した。2度目の昇格となった7月5日以降は一軍に帯同し続け、8月13日の
中日戦(神宮)では代打で冒頭の移籍後初本塁打。代打ではチーム3番目、右打者最多の28回起用で7安打、打率.269をマークした。先発出場は計17度を数え、六番・右翼で先発出場した9月12日の中日戦(バンテリン)では2号ソロを含む2安打2打点の活躍でヒーローにも選出された。試合前の円陣ではパフォーマンスで仲間を鼓舞するなど・・・
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