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プロ1年目物語

【プロ1年目物語】浪人時代に巨人の入団テストに合格していた!? 異端の頭脳派ルーキー小宮山悟

 

どんな名選手や大御所監督にもプロの世界での「始まりの1年」がある。鮮烈デビューを飾った者、プロの壁にぶつかり苦戦をした者、低評価をはね返した苦労人まで――。まだ何者でもなかった男たちの駆け出しの物語をライターの中溝康隆氏がつづっていく。

二浪して一般入試で早大へ


ロッテ1年目の小宮山


「ボクって、自分でも信じられないくらい記憶力がいいんですね。マウンドにいて、このバッターは前の時にこういうふうに攻めた、というのが瞬間的にパッとひらめくんです。それとコントロールだけは自信がありますから。10球投げて10球は、ほぼ狙ったところに投げられる」(週刊ベースボール1990年6月4日号)

 そう豪語する頭脳派ルーキーは、半年前に教育実習中の母校・芝工大柏高の体育館の片隅で、ロッテからのドラフト1位指名を知った。当時、早大生の小宮山悟である。「外れ1位といっても、12人の中の1人ですからね。これで文句いったら怒られます」と冷静なコメントを残す青年は、実は二浪して一般入試で早大合格後に野球部へ入った異端のプロ野球選手でもあった。ただし、浪人生活といっても、喫茶店で時間を潰したり、予備校をサボり明治神宮や代々木公園をブラつき、スポーツはたまに遊びの草野球を楽しむ程度。それでも、野球の才能は錆びていなかった。

「一浪目の夏、冷やかしで巨人の入団テストを受け、合格しているんですよ。名前こそ出ませんでしたが、『予備校生』と新聞でも報道されました。高3の夏からほとんど練習していない中、そういう結果が得られたわけですから、野球の能力的な部分に関しては自信を持つことができた、絶好の機会となりました」(令和の『一球入魂』/小宮山悟/ベースボール・マガジン社)

早大時代の小宮山


 仮にこの1984年頃、“謎の予備校生″こと小宮山がドラフト外でも巨人入りしていたら、数年後には斎藤雅樹桑田真澄槙原寛己らとともに強力先発陣の一角を担っていたかもしれない。だが、受験生としていよいよ崖っぷちの二浪目の冬からの猛勉強で小宮山は念願の早稲田入りを果たす。クールに見える小宮山だが、三年時の早慶戦では相手の四番打者・大森剛を打席に迎え、涙を流しながら敬遠した。監督からは敬遠の指示が出ていたが、先輩捕手は勝負した上で勝とうとサインを出してくる。その思いは嬉しかったが、小宮山は今の自分の力を客観的に見つめ勝負を避けた。己の投手としてのエゴなんかより、どうしても慶大に勝ちたかったのだ。その一方で第79代の主将を務め、早大のユニフォームと「背番号10」には強烈なプライドを持っていた。

牛島を師と仰いで


ロッテの新入団選手発表会


 こうして、六大学通算20勝を記録した小宮山は、1989年のドラフト会議で野茂英雄の抽選を外したロッテから1位指名を受けるのだ。早大では岡田彰布以来のドラフト1位選手でもあった。二浪していたため、すでに24歳のドラ1ルーキーに対して、球団側も大人として扱う。小宮山は合宿所に入らずいきなり一人暮らしでプロ生活を始め、11年ぶりに復帰した金田正一監督や植村義信投手コーチは、春季キャンプで新人投手をなんとベテラン組に入れて調整させた。だが、小宮山は鹿児島キャンプの紅白戦では初回に6失点するなど、計5イニングを投げて9失点と大乱調。打ちこまれる痩身のドラ1投手に、「不人気ロッテが、“プロならどこでもいい”という小宮山を指名しただけ」なんて辛辣な意見もあった。自信を失いかけ、頭を整理したくて、宿舎で隣の部屋の先輩投手を訪ねる。前年12勝を挙げた牛島和彦である。「自分のどこが悪いのか教えてください」と頭を下げる新人に対して、しばらく様子を見ていた牛島はある日、24歳の小宮山に「おまえ、歳はいくつだ?」と聞いたという。

「“そういうトシで入ってきたんだから、後がないぞ”っていういわれ方をしました。そして、“自分とトシが一緒のやつと比べてみろ”っていわれたんです……。昭和40年生まれでいえば、渡辺久(西武)、池山(ヤクルト)、小野(近鉄)……と多いですからね。で、“どんだけお金をもらっているんだ”って。向こうは何年もやっているから、開きがあるのは当然ですけど。“3、4年かけたんじゃダメなんだぞ”っていわれたんです。“1年で、どれだけ近づけるかだぞ、失敗は許されないぞ”って」(週刊ベースボール1990年4月23日号)

 ロジカルに遠慮なくものを言ってくれる牛島を小宮山は師と仰ぎ、師匠の自宅で夕食をご馳走になりながら“牛島教室”で、貪欲にプロで生き残るピッチングについて教えを請うた。同僚には40歳の大エース村田兆治もいたが、偉大すぎて軽々しく声をかけることはできない。だが、牛島は4歳しか離れていない接しやすい兄貴分だった。

「僕はそれまで、ボールが自分の手を離れてからのことばかり話していたけど、『手から離れるまでが大切なんだ』というのが牛島さんの考えだった。それまでは、『手から離れるまで』のことを真剣に考えたことはなかった。『体のこの部分をこう使えばこうなる』という部分は把握していたつもりだけど、『こうすればバッターは打ちにくくなる』というところまでは考えなかった」(成功をつかむ24時間の使い方/小宮山悟/ぴあ)

 出会いにも恵まれた背番号14は、3月11日のヤクルトとのオープン戦で9回途中まで6安打1失点の好投。オープン戦のルーキー大賞に輝いた。開幕すると先発にロングリリーフと便利屋のように使われたが、5月2日の近鉄戦でリリーフからプロ初勝利。5月13日の日本ハム戦では先発すると、打線の援護に恵まれず負け投手になったものの9回1失点の好投を見せた。この年のドラ1投手は、近鉄の野茂だけでなく、各球団のルーキーが一軍で活躍する。与田剛(中日)、佐々岡真司(広島)、西村龍次(ヤクルト)、佐々木主浩(大洋)、潮崎哲也(西武)、酒井光次郎(日本ハム)と史上最高の大豊作年と話題になるが、小宮山は目標を聞かれると新人王ではなく、「最少投球完投」(元阪神渡辺省三の持つ70球)の記録更新を掲げるマイペースぶりだった。

淡々と自分の仕事をこなして


ルーキーの小宮山を指導する金田監督[左]


 前半戦終了時、15試合で3勝4敗2セーブ、78回を投げて防御率3.46はチームトップの安定感。凄まじい勢いで奪三振を積み重ねる野茂のような派手さも、与田のような150キロ中盤の豪速球もなかったが、小宮山は閑古鳥の鳴く川崎球場でBクラスに低迷する環境でも、淡々と自分の仕事をこなした。ジュニアオールスターでは早大の先輩・石井浩郎(近鉄)に一発を浴び、後半戦は降板後にリリーフが打ち込まれ白星から見放されるも、9月に入ると8日のダイエー戦で7安打1失点の完投勝利。2カ月ぶりの4勝目を挙げると、9月29日の西武戦では独走Vを決めたレオ打線相手に4安打9奪三振のプロ初完封勝利を挙げる。5回までノーヒットに抑え、秋山幸二清原和博デストラーデのAKD砲から計6奪三振と圧巻の内容で、小宮山は9月の月間MVPに選出された。これには指揮官のカネやんも「計算できる投手になってきた。来季は二ケタ間違いない」とご満悦。エース村田はこの年限りで現役引退をするが、小宮山や伊良部秀輝が将来のロッテの中心を担うと誰もが期待した。

 30試合、6勝10敗2セーブ、防御率3.27。早めの投手交代のタイミングは納得いかず、大学野球とは違う長いペナントレースに戸惑ったが、小宮山はプロ1年目から170.1回を投げて、リーグ4位の防御率を記録する。一方で、メディアでは投手タイトルを総なめにした野茂や日本シリーズの胴上げ投手となった潮崎が注目を集め、当時は弱く不人気だったロッテの新人投手の扱いは小さいものだった。

 思えば、小宮山は1年目からずっと、キャリアを通して過小評価された投手でもある。90年代のプロ野球で最も多くのアウトを取りながらも、その90年代のロッテは10シーズンで最下位4度。バレンタイン監督が指揮を執った95年の2位以外は、万年Bクラスのチームにおいて、年間200投球回を三度、年間10完投以上も三度と背番号14はただひたすら投げ続けた。

 川崎球場の終わりから、千葉マリンスタジアムの黎明期まで。今に続く千葉ロッテの土台を築き上げたのは、間違いなく小宮山悟の右腕だったのである。

文=中溝康隆 写真=BBM
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