どんな名選手や大御所監督にもプロの世界での「始まりの1年」がある。鮮烈デビューを飾った者、プロの壁にぶつかり苦戦をした者、低評価をはね返した苦労人まで――。まだ何者でもなかった男たちの駆け出しの物語をライターの中溝康隆氏がつづっていく。 「メガネをかけた捕手は大成しない」
「有藤
ロッテが11.18ドラフトで狙う隠し球はズバリ、立命大の
古田敦也捕手だ」
『週刊ベースボール』1987年11月23日号では、ロッテが1位で
川島堅投手(東亜学園高)を抽選で外したら、「地味でも好素材の古田獲りだ!!」という記事が掲載された。他球団スカウトの「(古田は)全日本で五番を打ったが、あまり試合数も多くないし……。打撃面はプロで通用するかどうか疑問」なんてコメントもあるが、ロッテの高見沢喜人スカウト部長は「今ドラフト捕手では、文句なしに上位に入るだろう」と高い評価を口にしている。

立命館大時代の古田
しかし、この年に古田がプロから指名をされることはなかった。事前に上位指名を確約してきた
日本ハムも、まさかの回避。コンタクトレンズを試すも合わず、「メガネをかけたキャッチャーは大成しない」という根拠なき噂も囁かれた。指名を見越して用意された会見場のひな壇に座る古田は、テレビカメラ4台に囲まれながら、自分の名前が呼ばれることのない屈辱に震えた。青春の挫折である。立命館大の後輩・
長谷川滋利は、その夜に寮で見た古田の表情が忘れられないという。
「見たこともないぐらい落ち込んだ表情でした。俺の顔を見ると『長谷川、あかんかったわ』って言いはって……。聞いた途端、なんか涙が出てきそうになってねえ」(古田の様/金子達仁/扶桑社)
それでも、傷心の古田は「2年後にプロに絶対行ったろ!」と前を向き、トヨタ自動車の野球部に進んだ。社会人1年目からNTT東海の補強選手で都市対抗野球に出場。1988年のソウル五輪で日本代表に選出され、銀メダル獲得に貢献する一方で、午前中は出社して、野球と仕事に明け暮れた社会人生活を送るのだ。全日本の正捕手に対するスカウト陣の評価も高く、社会人2年目の週べ1989年12月4日号では「社会人NO.1捕手の古田敦也(トヨタ自動車)も
巨人、ヤクルトを逆指名している」という記事が確認できる。
捕手能力の高さに驚いた指揮官

ユマキャンプでピザをほおばる西村[左]、古田
1989年のドラフト会議で、ヤクルトはこの年の目玉選手の
野茂英雄(新日鉄堺)を抽選でハズしたら、外れ1位で
西村龍次(ヤマハ)、2位で甲子園V右腕の
吉岡雄二(帝京高)、そして3位で古田の指名を予定していたという。だが、1位で
大森剛(慶大)を1本釣りした巨人が、2位で狙っていた
元木大介(上宮高)をダイエーから1位指名されたことによりこのプランは崩れる。元ヤクルトスカウト部長の
片岡宏雄は、そのときの心境をこう語っている。
「そりゃそうや。もうこりゃ、あかんと思うたよ。ウチ以上に巨人も捕手が欲しい。大森を上で行ったということは、2位で古田を取りにくる可能性が強くなるわけやからな」(週刊ベースボール1989年12月18日号)
こうしてヤクルトは2位で古田を指名するわけだが、実は監督に就任したばかりの
野村克也は、社会人出身キャッチャーの獲得に乗り気ではなかった。9年連続Bクラスに低迷するチーム事情から、とにかく即戦力の投手が欲しい野村は、古田を推薦する片岡にこう反論したという。
「眼鏡のキャッチャーはいらん。大学出で日本代表だからと言っても所詮、アマチュア。プロはそんなに甘くない。それなら元気のいい高校生捕手を獲ってくれ。わしが育てる」(プロ野球スカウトの眼はすべて「節穴」である/片岡宏雄/双葉新書)
なお、立教大出身で
長嶋茂雄の後輩にあたる片岡と野村は当時からそりが合わず、のちに野村本人はこの発言を否定している。しかし、実際に入団直後の古田の扱いは、期待されているとは言い難かった。監督の野村の考えを知ろうとその著書を読破していたが、当初は指揮官に挨拶をしても無愛想な返事だけ。古田自身もユマキャンプでは木製バットへの不安を口にするなど、決して即戦力ルーキーという雰囲気ではなかった。しかし、いざ背番号27が紅白戦でマスクをかぶると、投手陣からは「とても新人とは思えない」と絶賛の声が相次ぐ。捕球してからの二塁送球のタイムを計れば、抜群の速さをみせて賞金をかっさらう。技術だけでなく、パドレスの元新人王捕手サンティアゴに物怖じせず捕球技術や送球方法を聞く度胸のよさもあった。実はキャンプイン後に野村監督も、古田の捕手としての能力の高さに内心驚いていたという。

ヤクルト監督1年目の野村監督
「初めて古田のプレーを見たのは90年春のユマキャンプでした。その時点ですでにスローイングもキャッチングも天才的なほど素晴らしかった。股関節も柔らかく、腰がしっかりと落ちるから安定感も抜群。肩は特別強いとは思わなかったけど、捕ってからがとにかく速い。“あとは配球術だけ教え込めば正捕手としてモノになる”、そう思ったことを覚えていますよ」(1990-1998 野村ヤクルト ID野球の遺伝子/ベースボール・マガジン社)
前年のヤクルトの捕手陣は
秦真司82試合、
中西親志76試合、
八重樫幸雄15試合とレギュラー不在に悩まされ、盗塁阻止率.268はリーグワーストだった。すると野村新監督は1990年の開幕直後こそ、打力に定評のあった秦を正捕手で起用したが課題の守備面で不安を露呈し、4月28日の巨人戦からスタメンマスクに24歳の古田を抜擢したのである。30日のカード3戦目で初安打・初打点を記録。チームを勝利に導き、野村監督は「会心のリードや。打ったからいうんじゃない。今日の殊勲者は古田だよ」と働きぶりを絶賛した。
指揮官に必死に食らいついて

打撃でもしぶとさを見せた
栗山英樹と経済問題や社会情勢を語り合う変わり種ルーキーは、5割を超える盗塁阻止率が話題となるが、週べの取材に「重要なのは盗塁阻止率より、相手チームの『盗塁企画数』だと考えています。なぜなら、それが少ないほど走りづらい捕手だと警戒されている裏付けですし」と冷静に答えている。やがて秦は外野へコンバートされ、ライバルと目された若手捕手の
飯田哲也も二塁へ。急ピッチでチーム再編を進めるID野球の中心には、「キャッチャー古田」がいた。正捕手の座を掴むと6月6日の
広島戦でプロ初アーチを放ち、オールスター戦にも監督推薦で選出。新人捕手の球宴出場は
田淵幸一(
阪神)以来、21年ぶりの快挙だった。そんな順風満帆に見えた古田のプロ1年目だったが、本人は野村監督の高い要求に応えようと日々苦しんでいた。
「配球一つで試合の流れが変わるので、そういうところを口すっぱく。監督からは『何だ、あの配球は』『何でこんなサイン出すんだ、ボケ』と。試合に出てると、不安ばっかりなんですよ。とくに1年生なんてね。先輩の投手ばっかりで、サインを出しても抑えられるかわからないし、相手はみんなよく打つし。『どうしたらいい、どうしたらいい』って、ずっと不安のなかでやっていました」(証言 ノムさんの人間学 弱者が強者になるために教えられたこと/宝島社)
それでも、一度プロから見放された男は必死に食らいつく。試合中、野村監督に何度も呼ばれて立たされたまま説教をされるので、いつからかベンチでは自分から監督の前に座った。上司の叱責から逃げるのではなく、あえて懐に飛び込んだのである。古田はリアリストだった。ボヤきが理不尽であろうが、腹が立とうが、偉大な名捕手の監督からなにかを言われたら、とにかく元気よく返事することを心がけた。そして、試合に出続けることで、経験と信頼を積み重ねていったのである。野村監督は、厳しく指導する一方で、年俸700万円のルーキーの働きにこんな言葉を残している。
「アイツ、オレよりいい読みをすることがある。いまのウチの投手陣は、捕手のリード次第で生きたり死んだりするレベルなんだ。古田の力で勝敗が左右されるんだよ。そんな状況でオレが使い続けるんだから、アイツを“代理監督”と思ってもらってもいい」(週刊ベースボール1990年8月13日号)
野村ヤクルト1年目は5位に終るも、古田は106試合に出場。打率.250、3本塁打、26打点。盗塁阻止率.527(企画数55、阻止29)はリーグトップで、新人捕手として史上初のゴールデングラブ賞を受賞した。翌91年には、セ捕手の歴代最高打率.340で
落合博満(
中日)との熾烈な争いを制し首位打者を獲得。チーム11年ぶりのAクラス入りに貢献すると、プロ3年目の92年には攻守の大黒柱として野村ヤクルト初優勝の原動力となる。
あの野村克也が認めた、グラウンド上の代理監督。瞬く間に、“平成最強捕手”へと駆け上がった古田敦也だったが、その頃にはもう、「メガネの捕手は大成しない」なんて誰も言わなくなっていた。卓越した技術と頭脳と度胸で球界のキャッチャーのイメージを変えた男。現役引退後に古田は自身の原点とも言える、駆け出しのプロ1年目をこう振り返っている。
「私も1年目、ある投手に『新人にリードはさせない。おまえは内角か外角かのサインだけを出して、そこに構えればいい。あとは必死に捕れ』とはっきりと言われました。プライドもあったのでしょう。ただ、そこで嫌がって相手を敬遠したのではプロ失格。だから、『どうすれば信用してくれるのか』と考えました。とにかく話しかけ、試合ではしっかり捕る。それを繰り返していたら、バッテリーを組んで5試合目くらいに『今日からおまえに任せる』と言ってもらえたんです」(週刊ベースボールONLINE 2016年6月23日)
文=中溝康隆 写真=BBM