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【高校野球】元指導者の鋭い視点から評論 今春センバツで頂点に立った横浜高の強さの要因

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春季神奈川県大会も制覇


今春、19年ぶりにセンバツ甲子園を制した横浜高は、春季神奈川県大会でも頂点に立った。これで昨秋の新チーム結成から、公式戦無敗の25連勝である[写真=矢野寿明]


【5月7日】神奈川県大会決勝
横浜高5x-4東海大相模高(延長10回)

 かつてプリンスホテル、母校・松商学園高を監督として指揮した足立修氏が、春季神奈川県大会決勝を元指導者の鋭い視点から評論する。横浜高が7年ぶり14度目の優勝を遂げ、昨秋の新チーム結成以降、公式戦無敗の25連勝。今春のセンバツ甲子園で2006年以来、4度目の頂点に立った強さの要因を探っていく。



 センバツを19年ぶりに制した横浜高と昨夏の甲子園8強メンバーが残る東海大相模高との決勝は、見ごたえ十分でした。4対4のまま9回で決着がつかず、延長10回タイブレークで横浜高がサヨナラ勝ちで優勝しました。

 平日にも関わらず、横浜スタジアムには7500人の観衆。かつて私が指揮させていただいた長野県大会では見たことがないスタンド風景でした。5日の準決勝は応援団、チアリーディング部、吹奏楽部による一体感ある応援もあり、夏の大会を思わせるようなボルテージ。神奈川の野球熱の高さを、肌でまざまざと感じました。

 この決勝、横浜高は立ち上がりから劣勢の展開。昨秋の県大会決勝で横浜高に敗退した東海大相模高の序盤からの勢いは、すさまじいものがありました。なかなかペースをつかめなかった状況を、横浜高はいかにして打開したのか。2つのポイントがありました。

 まずは、背番号1を着ける左腕・奥村頼人投手(3年)の早めの継投です。「四番・右翼」で先発。2対3とリードを許した4回裏一死二塁から、三番手でリリーフ。最初の打者は見逃し三振に斬りましたが、次の一番打者に左越え三塁打を浴び、追加点を与えます。後続を抑え、5回は1安打を許しながらも無失点。そして6、7回は3人ずつで抑えました。

 何が驚いたのかと言えば、横浜高・村田浩明監督の決断です。奥村頼投手は投球練習をしないまま、救援マウンドへ向かいました。本来はイニング頭で交代するのが一般的かと思いますが、厳しい場面でのスイッチ。夏を見越しての投手起用かと思いますが、奥村頼投手は見事に期待に応えました。テンポの良い投球リズムが、7回裏の同点に結びついたわけです。チームの大黒柱が流れを呼び込むこの試合、最大のポイントでした。なお、先発の織田翔希投手(2年)は2回2失点で降板しましたが、打たれたからこそ、次の対策を練られる。村田監督としても織り込み済みで、横浜スタジアムで得たものは大きいと思います。

走塁への意識の高さ


 次に攻撃面です。横浜高は9回までに9四死球を選んだのに対し、東海大相模高は2四球。ヒット数では、東海大相模高が上回っていましたが、この四死球の差が明暗を分けました。

 印象に残ったのは、走塁への意識の高さです。一塁走者が、相当なプレッシャーを与えていました。リードの大きさ、揺さぶり。リードを取りながら、あらゆる方法で東海大相模高バッテリーに重圧をかけていたんです。一塁けん制でアウトになったシーンもありましたが、あそこまで徹底されると、試合終盤、ジワジワと来るものなんです。結果的に神経質になり、ボールが甘めに入ったり、四球を出してしまう。優勢に試合を進めていた東海大相模高でしたが、試合前半からのジャブの応酬により、最後は耐え切れなくなったというのが現実だと思います。

 横浜高は送りバントでも、一塁までは全力疾走。守備時はカバーリングを徹底。当たり前のことかもしれませんが、継続していくのは難しいものです。横浜高には、攻守で一切のスキがありませんでした。常日ごろから「負けない野球」を追求しているそうですが、夏にはさらに磨きをかけてくることでしょう。

 春の公式戦は、甲子園出場をかけた夏本番を見据えて、手の内を見せないケースも見られます。ところが、横浜高と東海大相模高との決勝は「ガチンコ勝負」。試合後、両校からは涙が見られたように、死力を尽くした一戦でした。すべてを出し切り、夏に向けては、相手校の研究・分析を上回るだけの努力を続けていく。神奈川の高校野球が全国トップレベルである背景には、お互いが切磋琢磨する土壌があるのだと、確認することができました。

PROFILE
あだち・おさむ●1964年1月23日生まれ。長野県出身。松商学園高では1年夏、2年夏に三塁手として甲子園出場。2年秋から主将を務め、北信越大会準優勝。早大では投手として1年秋のリーグ優勝に貢献し、4年時は日米大学選手権出場。東京六大学リーグ通算19勝(10敗)。86年にプリンスホテルに入社し、1年目の秋に右肩を手術し、2年目から野手転向。89年に主将で都市対抗優勝。その後は日本代表として3つの国際大会に出場。92年に社会人日本選手権準優勝。都市対抗には86年から94年まで9年連続出場。95年から同社の監督に就任し、8人のプロ野球選手を輩出。2000年12月に同社野球部が廃部。社業に専念した後、11年7月に松商学園高監督に就任。15年春に24年ぶりのセンバツ出場に導き、17年夏は9年ぶりの甲子園出場(2回戦進出)。21年夏の甲子園は3回戦進出(16強)。22年9月限りで松商学園を退職。

構成=岡本朋祐

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