ドラフト1位指名を受けてプロ野球の世界に入るのは12人。 やはりこれは、エリート中エリートである。しかし、この“ドライチ”の栄誉、栄光は、大いなる励みであると同時に、大変な重荷にもなる。1965年から48年、49回のドラフトは、ドライチたちのどんなドラマを生み出してきたのか。 個人的な思い出も交えて振り返ってみる。 文=岡江昇三郎
写真=BBM
予備抽選時代の悲喜劇。
田淵も星野も結果オーライの1位指名 現行のドラフト制度は、1位指名が競合した場合に抽選という方式がその中心。これはプロ野球ファンにすっかりなじんでいるが、以前(67~77年)は、ドラフト1位指名に関しては、まず12球団の指名順番を決める予備抽選を行い、そこで1番となった球団から順に指名していく方式だった。だから、12番クジを引いた球団は、その年のドラフトは、まずあきらめなければならなかった。
これは球団にとってもつらいやり方だったが、指名される側にとってもつらいものだった。意中の球団が3番目ぐらいまでの上位クジを引き当ててくれれば、まあ、ホッとするだろうが、下位の順番だと困ってしまう。その選手の能力が高く評価されている場合、どの球団も欲しいワケだから、本人の希望していない球団、しかも、本人にあいさつもしていない球団が、順番上位の欲に目がくらんで(?)サッと指名してしまうことも十分ある。これが悲劇、そして、時には喜劇も生んできた。
このシステムの2年目の68年に早くも“大事件”が起きてしまった。
巨人を熱望した法大・
田淵幸一捕手がその主役だった・・・
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