長き歴史の中で猛虎が最も輝いたのが1985年。個性派ぞろいの多士済々の投手陣、200本塁打をマークした新ダイナマイト打線が火を噴き、タイガースは一気に頂点に上りつめた。その栄光の陰で目立ちはしなかったが、献身的にチームを支え続けた男たちがいた。ここではそんな5人の名脇役たちにスポットを当ててみたい。 文=田所龍一(産経新聞)、写真=BBM どん底を見た男たちの逆襲
この年、
吉田義男監督は2つの“大きな賭け”に成功した。ひとつは
岡田彰布の二塁定着。そしてもう1つが『正捕手・
木戸克彦』の大抜擢だ。
当時、木戸は“忘れられた存在”だった。PL学園高-法大から昭和58年のドラフト1位で入団したが、腰を痛めて1年目はわずか8試合に出場しただけ。2年目もほとんど二軍暮らしで『ガラスの腰を持つ男』とまで言われていた。
首脳陣のほとんどがトレードでの補強を推した。だが、吉田監督は「土台作りの方針に逆行するようなことはしとうない。少々のミスにも目をつむって、木戸を使うていきましょ」と宣言。高校、大学を通じて多くの大舞台を踏んでいる「経験」と物怖じしない木戸の「性格」に賭けたのである。

木戸克彦
木戸は見事に期待に応えた。6月15日の大洋8回戦(甲子園)ではなんと、2回、5回、7回にホームラン。
別当薫、
後藤次男、
藤村富美男、
カークランド、
田淵幸一、
ブリーデン、
掛布雅之に続く球団史上8人目の1試合3連発の“偉業”を達成した。
この年の木戸の活躍は新妻・美紀夫人の努力のおかげ。腰に不安がある夫を「太らせてはいけない」と食事面でも気を遣い、夜には腰のマッサージ。「面倒くさいからもういいよ」という木戸を押さえつけては腰にお灸をすえ続けたのである。
実はこの15日の大洋戦でもう一人、首脳陣の“大抜擢”に応えた男がいた。4年ぶりの先発を勝利で飾った
中田良弘である。彼もまたどん底を味わった男だった。
昭和56年ドラフト1位で日産自動車から入団した中田は「三振の取れる投手」としてルーキーながらも抑えの切り札を務め前半戦6勝5敗8セーブを挙げた。「毎日のように段ボール箱でファンレターが届くし、何をやってもうまくいくような気がした」という。そしてジュニアオールスターに出場。予定は9回1イニング。だが、延長戦となり投げ続けた。4イニング目、ズキーンという激痛が右肩に……中田の夢のようなルーキーイヤーはそこで終わりを告げた。

中田良広
長く苦しい治療とリハビリ。「冬がすぎ、やがて春が来る」。当時、合宿所「虎風荘」の中田の部屋にはこんな言葉が染め抜かれた暖簾がかかっていた。
一軍復帰は翌57年の最終戦。58年は18試合、59年も30試合に投げたが、すべて中継ぎのマウンド。その年のオフ、ハワイ旅行中に偶然出会った
米田哲也新投手コーチに「お前は・・・
この続きはプレミアムサービス
登録でご覧になれます。
まずは体験!登録後7日間無料
登録すると、2万本以上のすべての特集・インタビュー・コラムが読み放題となります。
登録済みの方はこちらからログイン