時に残酷に、時に感動的に──。1965年秋からスタートしたドラフト会議。多くの若者たちの将来が、その日に決まる。ここでは、その長い歴史の中から幾つかの出来事を拾い紹介する。 ※この企画内の年は基本的にドラフト開催年 混乱状態で行われた第1回会議
自由競争の中、偏った球団への戦力集中と、膨れ上がる新人選手補強費の抑制のため、西鉄(現
西武)の西亦次郎球団代表から提案したのが、アメリカのプロ・フットボールで採用されていた新人選手の獲得方式だった。まず、同じ悩みを持つパ球団の賛同を得て、それからセを説得。検討の末、65年11月17日に第1回ドラフト会議が開催された。
ただし、みながいわゆる“初心者”で勝手が分からない。一次選択で指名選手がかち合った場合、クジ引きだったが、各球団が異様にダブりを恐れ、波乱が続出する。目玉と言われた
木樽正明(銚子商高)が一次選択から漏れ、二次で東京(
ロッテ)に。父親が「うちの息子が二次?」と怒ったという。また、阪神が指名すると思われた
鈴木啓示(育英高)も二次に回り、近鉄が指名し、阪神は、ほぼ無名の右腕投手、土庄高の石床幹雄を1位指名。その際は「イシトコって誰だ」と報道陣がざわついた。南海は4人を指名して終了し、
広島は18人を指名。
語り継がれる「黄金ドラフト」
どの年のドラフトが一番豊作だったのか──。
時代によっても違うので、一概に比較はできないが、よく例に挙げられるのが・・・
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