ベストナイン9回にゴールデン・グラブ賞は10回。ヤクルト不動の正捕手としてマスクをかぶり続け、1990年代には日本一の歓喜を3度も味わった。通算2097安打と攻守で輝いた眼鏡姿の司令塔は、いかにして平成最強捕手へと登り詰めたのか。昭和の名捕手が遺した言葉とともに原点を探る。 文=長谷川晶一 写真=BBM ※守備成績は捕手での出場時に限る 
[打撃成績]試合2008、安打2097、打点1009、本塁打217、盗塁70、打率.294
[捕手成績]試合1959、守備機会14544、守備率.997、盗塁阻止率.462
入団時からすでに完成
名将・
野村克也氏が生前に著した『私の教え子ベストナイン』(光文社新書)には、彼が考える「自慢の弟子」がポジションごとに並んでいる。その捕手部門に名を連ねているのがヤクルト監督時代の愛弟子である
古田敦也だ。かねてから「名捕手あるところに覇権あり」と考えていた野村氏にとって、不動の正捕手の育成は急務であり、その眼鏡にかなったのが古田だった。
晩年の野村氏にインタビューをすると、決まって古田の話題が出た。その多くは厳しい批評ばかりだったが、監督引退後もなお、愛弟子の成長を誇らしく思っている様子がよく伝わってきたものだった。
「眼鏡をかけた捕手は大成しない」と言われていた時代に、どうして古田は球史に残る稀代の名捕手となったのか? かつて野村氏にその理由を尋ねたことがある。すると彼は、こんなことを口にした。
「1990年のユマキャンプで初めて古田を見たとき、スローイング技術、キャッチング技術、いずれも私がそれまで見てきた中ではダントツの能力を誇っていた」
35年生まれの野村氏と、65年生まれの古田とはちょうど30の年齢差がある。野村氏は言った。
「それまで多くの選手を見てきた中でも、捕ること、投げることに関しては文句なくナンバーワンだった」
この発言にあるように・・・
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