監督期間の8年でリーグ優勝4回、日本一は1回。Bクラスに沈んだことは一度もなく、常勝軍団と呼ばれた。冷静な指揮官に率いられたチームは強く、うまく、したたかだった。勝つことが当たり前だった時代。落合竜の8年を振り返る。 文=玉野大(スポーツライター) 写真=BBM 
2004年から11年まで中日を指揮した落合博満監督。妥協なき采配でチームを勝利へと導いた
2003年秋、落合博満は中日ドラゴンズの監督に就任した。前任の
山田久志を“休養”という体裁で事実上の途中解任に追い込んで以降、代行監督を務めた
佐々木恭介らを含め、人選作業は1カ月以上に及んだが難航はしていない。人事権を握っていた球団オーナー・白井文吾の腹の中は、早くから「落合」で固まっていたはずだ。
その2年前に中日を去り、間を置くことなく
阪神の監督に座った
星野仙一は、見事な手腕でダメ虎を猛虎へと再生。この年にリーグ優勝を果たしていた。中日の監督を退任しても、解説者としておとなしく活動すると思っていたはずの星野の、人生を懸けた決断と成功。笑ってなどいられない状況で、球団が新監督に求めた絶対条件が「星野に対抗しうる人物」だった。つまり、かつての子飼いでは話にならないが、大方の候補者は星野に育てられたOBだ。唯一と言っていい人材が、闘将になびいていなかった落合だった。
現役時代は三冠王3度。「天才」と呼ばれた名選手は、名監督でもあることを証明した。在任8年でリーグ優勝4度、日本一1度。球団史になかった連覇もやってのけた。
■落合博満監督8年間の戦績 【2004年】優勝 補強は不要。現有戦力の10%底上げで必ず優勝してみせる。誰もが実現不可能だと思った「大言壮語」。就任1年目に大方の予想を覆してみせた。落合マジックの第一歩は、開幕投手にそれまでの2年間、故障で登板できなかった
川崎憲次郎を指名したこと。しかも正月には直接電話をかけ、伝えていた。打たれたが、打線が奮起して逆転勝ち。負けていても「仕方ない」でノーダメージ。勝ったことで、その後も語り継がれる伝説となった。そこが「マジック」の所以(ゆえん)である。
【2005年】2位 前年は「右の四番打者を育てる」と宣言したが、2年目は大補強に打って出た。横浜の大砲、
タイロン・ウッズを強奪。「連覇はV1より難しい」との理由に基づいていた。
自身も四番だったからか、スターティングオーダーは「四番から決める」と重要視。この年以降・・・
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