90年に及ぶ日本のプロ野球の歴史において、遊撃の選手が本塁打王になったのは一度しかない。それが1984年の宇野勝だった。豪快な打撃とヘディング事件が印象に残る。“打てる遊撃手”の先駆者に話を聞いた。 取材・構成=牧野正 写真=BBM 
宇野勝
右肘痛で投手断念 篠塚さんの鶴のひと声
中学時代は投手だった。1試合23三振を奪ったこともある。甲子園出場を夢見て、地元の名門・銚子商高に進んだ。2学年上に土屋正勝(中日ほか)、1学年上に篠塚利夫(巨人、のち和典)がいて、宇野が1年の1974年、夏の甲子園で優勝を飾った。宇野は現地に行けず、学校に残ってのテレビ観戦でその光景を目に焼き付けている。その新チームで背番号1を背負ったのが宇野だった。しかし翌年のセンバツ出場がかかった秋季大会で右肘を痛めて投手を断念。その後、三塁をはじめ、いろいろなポジションを守ることになったが、遊撃だけは守らなかった。そこには名手の篠塚がいたからだ。 ──銚子商高に進んだのは甲子園に出たいという夢があったからですか。
宇野 そうです。将来はプロに行きたいとかそういうことではなく、とにかく甲子園でプレーしたかった。高校時代の最大の目標でした。最後の3年夏に、その夢がかなったんですけどね。
──新チームでエースになったものの、故障で投げられなくなりました。そのときの率直な気持ちは。
宇野 もう右肘がどうにもならなかったから仕方がなかった。しばらくは打つこともできずに、ひたすら走り込んでいましたけど、そこからはいろんなポジションを守ることになりました。
──遊撃・宇野の夜明け前ですね。
宇野 その遊撃にはシノさん(篠塚)が守っていましたから、それ以外のポジションですよね。でも自分が三塁を守っているとき、シノさんから「俺が三塁を守る」と言われて。大先輩に言われたらそうするしかないので、そこで初めて遊撃を守ることになったんです。だからきっかけはシノさんなんです(笑)。
──3年夏の甲子園はベスト8。宇野さんは遊撃手で出場しています。
宇野 あれはうれしかったですね。打つほうは3試合で1安打でしたけど、初戦の2回戦だったか、三遊間に飛んだ打球をうまく処理したんですよ。それがプロのスカウトの目に留まってドラフトにかかったんです。
──卒業後はプロに行きたいと思っていましたか。
宇野 土屋さん、篠塚さんも・・・
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