巨人が強さを誇った時代は、先発三本柱が光り輝いた時代とも言える。不滅のV9後の巨人の流れを振り返ったとき、江川卓入団から始まる1979年から98年の20年間は、激動、そしてエポックな時期でもあった。この間、7回のリーグ優勝はセ・リーグ最多であり、その中心は2種の三本柱を擁した強力投手陣だったのは間違いない。 文=山田修睦 写真=BBM 
左から江川、西本、定岡
【1980~85】江川卓&西本聖&定岡正二 原動力は対抗心
先発三本柱結成のきっかけは、1979年オフの伊東キャンプだった。
長嶋茂雄監督が次世代の主力育成を目指し“地獄”とも呼ばれた。最大の主眼は、この年入団した江川卓を徹底的に鍛え上げることにある。投手陣の参加者は、江川、
西本聖、
角三男、
鹿取義隆、
藤城和明、
赤嶺賢勇の6人。
定岡正二はギックリ腰により参加できなかった。
このキャンプで江川、西本の2人がブルペンでほぼ同じタイミングで投げた日があり、どちらも「相手が投げ終わるまでやめない」と投げ続けて、結局2時間、300球のマラソン投球になってしまったことがあった。「僕は負けず嫌いだが、ニシも相当なもの」と江川は言う。自分をライバル視していることは入団時から感じていた。
スッタモンダの
阪神入りから、宮崎キャンプ前日、
小林繁との電撃トレードで入団した怪物に、敵視にも似た感情をチームメートは抱いていた。最初の練習に合流した日も江川がキャッチボールの相手を探すと、定岡も鹿取も「ノー」だった。そんな大物新人に声を掛けて、パートナーとなったのが、西本だった。
年齢も1歳しか変わらず、松山商高時代に練習試合で見た作新学院高のエースのストレートに驚愕(きょうがく)した思い出もある。「場合によっちゃ、なんとか獲得できそうな先発の枠を奪われてしまう」という不安と同時に「この人を超えてみよう」という思いがフツフツと沸いた。練習の相手をしながら、「負けたくない」という感情を隠すことがなかった。
ポテンシャルから言って、江川の優位は動かない。だが、その男に挑戦し続けることが・・・
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