横浜大洋の中心打者として278本塁打を放った長距離砲。引退後もコーチとして球団に携わり、多くの名選手たちを育て上げてきた。現在も選手育成のために尽力する中、礎となっているのは、恩師からの教え、そしてファンへの思いだった。 取材・構成=石塚隆 写真=BBM 
二人三脚で指導を続けてくれた関根監督[左]。自身のコーチとしての指導方法にも大きな影響を受けている
私がプロになって6年目の1978年に大洋ホエールズから横浜大洋ホエールズに改名して、川崎から横浜に移転してきたんですけど、当時の横浜のお客さんは球場に来るのが遅かったんです。多分、中華街で食事してから来てたんじゃないかと。いや、本当に(笑)。
まあ、当時はよく野次られましたよね。移転しても弱かったから「川崎に帰れ!」なんて言われたり。実際、優勝争いもなければ、選手層が薄くてレギュラーが調子を崩したりケガしたりすると、一気にチームがきつくなった。だから春先は調子がいいんですけど、結局シーズンを通して戦い抜けないチームでしたね。
いろいろな監督の下でプレーをした中で、一番に恩義を感じているのは
関根潤三さんです。就任した82年に関根さんは「俺はオマエには今年何も言わない。見ているだけだから」と言ってくれて。その年、私は27本ホームランを打ったんだけど、やっぱり40本打ちたいなって。そこで「教えてください!」とお願いをしたんです。ただ、そのオフからスタートした伊東のキャンプは本当に地獄のよう。関根さんは、練習で一切妥協をしなくて、当時は4勤1休だったと思います。あまりにもきつくて1週間もすると心身ともにクタクタになってまともに飯は食えなくなるし、歩くこともままならず、休みの日は泥のように眠るだけ。特守を1時間ぐらいやるんですけど体中がパンパンで、もう動けない。けど関根さんは「おう、きついか。頑張れよ~」ってね(笑)。
シーズンが始まると、遠征先でホテルの部屋に1日に4回も呼ばれたことも。現地に到着してすぐ関根監督の部屋にバットを持って行きスイングを見てもらう。さらに練習後と夕飯のあとにもまた・・・
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