現時点でのファイターズの最新の優勝は2016年だが、1981年以降、四半世紀優勝できなかった日本ハムを変えたものは何だったのか――。1990年代後半のエースとして活躍し、北海道への移転時の選手会長だった「ガンちゃん」こと岩本勉氏と、後楽園時代から熱心にファイターズを見つめてきたコラムニスト・えのきどいちろう氏による対談で、その原因を考察してもらった。 
岩本勉[野球解説者:左]、えのきどいちろう[コラムニスト:右]
「札幌の野球熱の高さを感じた」(えのきど)
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今回の特集は「2016年のファイターズの優勝から10年」です。まずは04年に東京から北海道に移転して、06年に移転後初、チームとして25年ぶりの優勝がありました。
岩本 僕は05年限りで引退したので、06年は解説業1年目だったんですよ。周囲から「もう1年頑張っていたらチャンピオン
リングをもらえた」と言われました。でも解説業1年目って普通は仕事がなくて、みんなお手上げになるんですよ。それなのに寝る暇なく稼働させてもらった。札幌のテレビ局は東京のキー局の系列が全部あるのに、解説できる人が常駐してなかったんです。北海道で引退して解説をやっていたのは当時僕だけだったから、すごく稼働させてもらいました。現役最終年の年俸の税金を翌年ちゃんと払えましたからね。これ、すごくないですか?
えのきど すごいね。
岩本 すごいでしょ。だから選手にありがとう(笑)。しかも翌07年も2連覇よ。解説の仕事が波に乗れたんですよ。野球の解説の仕事でずっと来られたのは06年の優勝のおかげです。
えのきど なるほど。ファイターズは06、07年と世代交代をうまくやったんですよ。例えば06年のリードオフマンだった
森本稀哲、
田中賢介の一、二番も、開幕の段階ではレギュラーじゃなかった。控えだった若い鎌ケ谷育ちが出てきて、そこに
新庄剛志さん(06年の登録名はSHINJO)、
坪井智哉さん、
稲葉篤紀さんと外から来た選手がいた。
岩本 ちょうど選手が入れ替わる時期だった。
えのきど 04、05年夏は南北海道代表の駒大苫小牧高が甲子園連覇。06年も決勝再試合。秋にファイターズが優勝したんで、北海道の空気がすごく変わって、野球熱がガーンと上がりました。あの年の札幌の街は野球で浮かれてるみたいな感じだったんですよ。いろんなビルに「ファイターズ優勝おめでとう」って懸垂幕が下りて。僕は東京でファイターズを応援していて、「満員になればいいな」とか、「街でジャイアンツじゃなくてファイターズが目立つようになればいいな」と思って、一生懸命東京ローカルのAMラジオでファイターズのことを話す番組をやっていたんです。そしたらそれが札幌で実現してるじゃないですか。もう泣きそうでさ。好きだった女の子が結婚して幸せになってくれたみたいな感じなんですよ。「幸せになってくれたね。遠くに行ったけど」っていうね。プレーオフで
ソフトバンクからサヨナラ勝ちしたでしょ。
岩本 ファイターズの優勝が決まったときね。
えのきど そのときは北海道新聞のパスで記者席にいたんだけど、HBCラジオの解説で放送席にいたガンちゃん(岩本)が泣いてたんだよ。
岩本 あのサヨナラのホームインをした稀哲の姿を見てですよ。苦労してるし、僕も一緒にやってるし、弟のように付き合ってたんで。最後、ホームベースを踏んでガッツポーズしてる背中、46番、めっちゃかっこよかった。頭の中が大興奮で、それを見て感動したんですよ。それと
斉藤和巳(ソフトバンク)の燃え尽きる姿を見て。ザ・ピッチャーの姿なんですよ。僕は男の投手のロマンをそこで感じて、いろんな思いで「野球ってすげーなー!」と思って見てた。すごいドラマでしたよね。あれは伝説です。
「大社義規オーナーのすごさ」(岩本)
えのきど さかのぼると、俺は大学4年のときに
大沢啓二監督で優勝してるんですよ。1981年です。「これからいいこといっぱいあるんだろうな。俺が好きなファイターズはこの先ずっと優勝するんだろうな」と思っていたら、
西武の黄金時代が来てしまった。なんでだ、と。世の中なめたらいかんぞって言われているような感じで。それから・・・
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