今回の件と同じように、最初のきっかけは大したことではなかったかもしれない。しかし、波紋は徐々に広がり球界が激震。何人もの永久追放者を出し、ついには西鉄が身売りをする要因ともなった。 
70年4月10日、永易の会見[左側のカメラ正面。マイクの前の人物]
新聞報道から衝撃が広がる
いまから45年以上前、“黒い霧”と言われた事件があった。今回とは状況が違うが、人の心の弱さに忍びよる“闇”の恐ろしさは同じだ。
昭和30年代から40年代にかけ、野球賭博は特に関西で“隆盛”を極めていた。表面には出てこないが、暴力団関係者を胴元にし、喫茶店、バーなどに翌日のプロ野球公式戦のハンデキャップ表が配られ、それを見た客が勝敗に投票するというシステムが出来上がっていたという。
1969年10月8日、
巨人の親会社でもある読売新聞、そして報知新聞の記事が始まりだった。記事によれば、7日、西鉄ライオンズ球団が暴力団にそそのかされ、公式戦で八百長(敗退)行為を行っていた同球団の投手・
永易将之(27歳。当時二軍)をシーズンの公式戦終了をもって解雇すると発表した。
事態が明るみになったのは、年俸160万円(推定)の永易が、福岡・博多の一流のバーに遠征してくる他チームの主力選手を招き、一夜に数十万という大金を使って豪遊している事実を聞きこんだのがきっかけだった・・・
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