古豪・静岡商の監督とエースは「父子鷹」として夢舞台を目指してきた。甲子園をかけた最後の夏は中止となったが、卒業後の進路はプロ一本で、ブレることはなかった。 取材・文=上原伸一 写真=菅原淳 
高田監督と左腕エース・高田はグラウンドでは「指揮官」と「選手」で、家庭では親子関係に戻る
「野球をやりたい」
高田琢登がそう言ったのは小学4年時だ。それまではサッカー少年だった。これを聞いて「心の中でガッツポーズをした」のが、2015年から静岡商高を率いる父・高田晋松監督だった。高田監督は静岡高3年夏(1987年)に四番・捕手で甲子園に出場。筑波大では首都一部リーグの首位打者に輝いている。高田監督の父・登さんも、社会人・日本軽金属の選手、監督として都市対抗出場。高田は祖父から「登」を受け継いだ。
高田が小学校時代、父はキャッチボール相手を務めた。ミットを構えたのは、右打者のインサイドの位置。「クロスファイアですね。琢登は左投げなので、ここに強いボールを投げろ、と。技術的な指導はしませんでしたが、これだけは小学4年のころから意識させていました」。
高田が注目されるようになったのは、静岡蒲原シニアに所属していた中学3年のときだ。シニアの日本代表として全米選手権で優勝を果たした左腕は、このときすでに最速139キロの真っすぐを投げていた。高田の下には県内外で20校近い強豪校から勧誘の手が伸びたが、進路先に選んだのは、父が指導する静岡商高だった。高田はその理由をこう明かす・・・
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