1964年に首位打者と盗塁王を同時受賞し、当時は「鷹の爪」と呼ばれた。史上初の通算500盗塁を達成した広瀬叔功氏が11月2日、心不全で亡くなった。89歳だった。 
野村克也[右]とともに南海ホークスの一時代を築いている[写真=BBM]
「親分」のために走った
塁に出れば、俊敏な動きで相手バッテリーを翻弄した。その身軽な動きぶりからいつしかついたあだ名は“チョロ”。「大事な場面で確実に盗塁をする」というポリシーで歴代2位の596盗塁を記録し、失敗はわずか123。300盗塁以上では長らく歴代1位の89.2%もの盗塁成功率を誇った。「鷹の爪」と呼ばれ、まさに南海ホークスだけでなく、球界屈指のリードオフマンだった。
大竹高から1955年に入団テストを受けて南海に入団。高校時代は投手を務めていたが、その俊足と強肩を買われて野手に転向した。2年目の56年にはプロ初打席から7打席連続安打という鮮烈な記録を残し、早くも非凡な打撃センスを印象付けている。翌57年に遊撃の定位置をつかみ、61年途中から外野へ。以降、南海の黄金時代を支える存在となった。
投手・
杉浦忠、捕手・野村克也らとともにチームをけん引し、当時の
鶴岡一人監督から“三悪人”と呼ばれた一人でもある。「記録のためやない、親分のために走っている」。鶴岡監督のことを親分と慕い、そのためにベースを駆け抜けた姿は、対戦相手だけでなく、ファンの記憶にも残っている。
個人記録としても数々の金字塔を打ち立てた。63年には日本記録のシーズン626打数をマーク。外野手としても同年に368守備機会、353刺殺を記録し、2024年に
辰己涼介(
楽天)に抜かれるまでパ・リーグ記録を保持していた。また、大きなリードと二塁ベース直前までスピードが落ちない走塁技術で61年から65年まで5年連続の盗塁王を獲得。特に64年には自己最多の72盗塁、そのうち31個が連続成功という離れ業を演じた。この年から盗塁王が連盟表彰されることになり本人は、「31個連続成功など走り回っていたので、盗塁王の表彰をしてくれるようになったのでしょう」と引退後に振り返っていた。
史上初の500盗塁を記録していることから、走塁のイメージが強いが、打撃でも光った。64年には打率.366で首位打者を獲得し、89年に
クロマティ(96試合目まで)が破るまで89試合目までで打率4割台を記録する偉業を成し遂げた。72年には史上6人目の通算2000安打を達成、77年の現役引退まで通算2157安打、打率.282を残した。
引退翌年の78年から野村克也監督の後任として、南海を3年間指揮した。91、92年にダイエーで守備走塁コーチを務め、99年には野球殿堂入りを果たした。
ソフトバンクホークス20周年の節目、5年ぶり12度目の日本一を見届けて、旅立った。