日本プロ野球最多の通算3085安打を放ち、「安打製造機」の異名を取った張本勲さんが、9月9日に死去した。86歳だった。 文=池田哲雄(小社社長) 写真=BBM 
東映でプロキャリアをスタート。1970年には初の最多安打[176]を獲得し、キャリア最高の打率.383で5度目の首位打者にも輝いた
23年間の現役生活で7度の首位打者を獲得
張本勲さんは
広島市出身。1945年8月6日、5歳のときに爆心地から2.3キロの段原新町(現南区)で被爆を体験した。山陰にあった自宅で、閃光と爆風を浴びたが、母が覆いかぶさるように抱きかかえてくれたおかげで、救われたという。代わりに母は背中に無数のガラス破片が突き刺さり、おびただしい出血を余儀なくされた。勤労奉仕に出て、被爆した7歳年上の姉は全身に火傷を負い、「熱い。熱い」と呻きながら、非業の死を遂げている。命は救われたが、被爆者手帳を持つ唯一のプロ野球選手となった。
大阪・浪華商高(現大体大浪商高)から、59年、東映に入団。4歳のときに負った右手火傷のハンデを克服して、プロ1年目から125試合に出場。打率.275、13本塁打、57打点の成績を挙げて、新人王を獲得した。
61年には初の首位打者に輝く。67年から4年連続で首位打者を獲得。
巨人から
ロッテに移籍した80年5月28日の阪急戦(川崎)で、日本プロ野球史上唯一の通算3000安打を達成した。23年間の現役生活で、7度の首位打者を獲得。首位打者7度は、
オリックス時代の
イチローと並ぶ快挙である。
王貞治に刮目するとともにより一層、精進努力を重ねる
同じ40年生まれの巨人・
王貞治とは、常に切磋琢磨し続けた。初めて首位打者を獲得した翌62年、広島市民球場で行われたオールスター・ゲーム。その年に38本塁打を放ち、初の本塁打王を獲得する王の打撃練習を見て、衝撃を受けた。
「私は前年に首位打者を獲っているし、自信満々だった。ちょっとからかいに行こうか、くらいの軽い気持ちで、近づいていったんです。しかし、スイングの速さに圧倒されてしまった」
一本足打法で覚醒した王に刮目するとともに、張本もより一層、精進努力を重ねた。
その後、巨人で76年から79年まで、4年間OH砲としてコンビを組み、
長嶋茂雄監督の下で、2年連続リーグ優勝に貢献。特に移籍1年目の76年は182本の自己最多安打を記録している。だが、
中日・
谷沢健一にわずか6糸差で、首位打者争いに敗れた。
その年、張本の打撃は絶好調だった。6月に30試合連続安打を記録。当時の日本記録は、阪急・
長池徳士の32試合である。31試合目の6月22日に行われた大洋戦(後楽園)の試合前の打撃練習で、右足甲に自打球を当ててしまった。患部は腫れ上がり、ほとんど歩けない状態だったが、「試合に出ろ!」と長嶋監督は非情な命令を下した。結果は4タコ。記録は潰えた。東映、
日本ハム時代なら、ベストコンディションで試合に臨むことを優先した。しかし、巨人では個々の事情よりも、球場に足を運んでくれるファンを喜ばせることが優先される。
76年と77年に出場した日本シリーズでは、パ・リーグを代表する阪急のサブマリン・エースの
山田久志と、
足立光宏のシンカーに翻ろうされた。打撃コーチから「落ちる球を上から叩け!」と指示が出ると、「なにを馬鹿なことを言っとる! 落ちる球を上から叩いて当たるわけがないだろ!」と、自らの信念を貫くために反旗を翻した。実情と実態の掌握。しゃくり上げるように打たなければ活路は見いだせない。それは現在の
大谷翔平(ドジャース)の打撃を見れば一目瞭然である。しかし、長嶋巨人は2年連続で日本一を逃している。
反骨精神と自らの信念を貫き通した23年間の現役生活。そして、99年からTBS系のテレビ番組で、同じく23年間、忖度抜きの御意見番として、「喝!」「あっぱれ!」のフレーズで、視聴者から注目を集めた。
記録と記憶に残る伝説のヒーローは、天国から野球界へ忖度抜きのメッセージを送り続けることだろう。
PROFILE はりもと・いさお●1940年6月19日生まれ。広島県出身。左投左打。外野手。広島・松本商高から大阪・浪華商高を経て59年に東映(日拓、日本ハム)へ入団し、新人王を獲得。61年に初の首位打者に輝き、東映が初優勝を果たした62年はMVPを受賞。長打力と俊足を兼ね備えた安打製造機で、日本プロ野球史上最多タイの7度の首位打者に輝いた。76年に巨人へ移籍して長嶋茂雄監督の初優勝に貢献。80年にロッテへ移籍し、翌81年限りで現役引退。通算3085安打をはじめ、数々のNPB記録を打ち立てた。通算500本塁打、300盗塁は史上唯一の記録である。90年に野球殿堂入り。通算成績は2752試合、3085安打、504本塁打、1676打点、319盗塁、打率.319。