本当は50歳まで現役を続けたかった
今週号には
稲葉篤紀(
日本ハム)の引退試合も掲載されるようだが、それに合わせ、私の引退にまつわる話を書いていきたい。
私の現役引退は、1980年。南海-
ロッテと渡り歩き、3球団目となる
西武ライオンズで、そのときを迎えた。45歳だった。
シーズンも押し迫った9月28日、本拠地・西武球場での阪急戦(ダブルヘッダー第1試合)。私はその日、先発マスクをかぶっていた。
3対4と1点ビハインドで迎えた8回裏一死満塁のチャンスに、打順が回ってきた。「まあ、同点は任せなさい」と意気揚々、バッターボックスに向かった。最低でも外野に犠牲フライを飛ばす自信があったからだ。
すると後ろから
根本陸夫監督が「野村、野村」と呼んでいる。一瞬、「俺にアドバイスか?」と思った。
「代わろう」
なんと、そこで私に代打が送られたのだ。「俺に代打って、誰や……」そう思って見ると、バッターは左の
鈴木葉留彦だった。ガックリきた。
私はベンチに戻ると、「この代打策、失敗しろ、失敗しろ」と念じた。祈りは通じるものだ。6-4-3の、絵に描いたようなダブルプレー。「ざまあみやがれ」と思った。
帰りの車の中、私は決意した。「もう、辞めよう」と。チームの勝利を最優先にしない選手は、その一員として失格だ、と言い続けてきた・・・
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