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1990年代中盤から西武の投打の中核を担った鈴木健氏と石井貴氏が「プロ野球チームをつくろう!」に登場。ともにドラフト1位で強豪チームに入団。厳しい競争を戦い抜きチームの中心選手となり、97~98年のリーグ連覇に大きく貢献。当時の西武の話を中心に語っていただいた。

黄金時代からの世代交代はうまくいった



――「プロ野球チームをつくろう!」を見ていただきましたが、いかがでしたか?

鈴木 80~90年代の家庭用ゲーム機の世代にとっては、最初は何が何だか分かりませんでしたが、説明を受けてようやく内容が分かった感じでしたね。リアリティーがあって、面白いですね。

石井 ゲームのコンセプトはビックリしましたし、面白そうですね。結構選手数もいますよね。

――主力ではない選手も登場します。

鈴木 昔の野球ゲームはレギュラーの選手のみしか登場しなかったので、レギュラー以外の選手も入っているのは選手にとっては嬉しいことですよね。

――近々ルーキー選手もゲームに登場する予定です。さて、鈴木さん、石井さんともにドラフト1位(石井氏は逆指名)で西武に入団されましたが、当時黄金時代のチームへの入団はどんな気持ちでしたか?

鈴木 強いチームには憧れていましたけど、自分の出場機会を考えると、あまり強くないチームの方が出られるんじゃないかなとも思いました。ただ西武は地元だったし、意識するチームではありましたし…、まあ入団に関しては「親のいいなり」でしたね。まだ高校生でしたから。石井君のように社会人であれば違うんでしょうけど。



石井 僕はいろいろな球団に誘われていて、最初に考えたのが1年目から一軍で投げられる球団でした。それで西武ではないと思ったんですよ。戦力がすごかったので2、3年は一軍には定着できないか、もしくは2、3年で終わってしまうのでは、と考えていました。

 でも最終的に決め手になったのは捕手が良いところで、それを考えると伊東(勤)さんのいる西武か、古田(敦也)さんのいるヤクルトに絞られたんですよね。その後いろいろな人のアドバイスを受けた結果、敢えて厳しい西武を選びました。投手陣のいいチームに行って、良いところをいっぱい盗んでみようとも思いました。



鈴木 僕の時は秋山(幸二)さん、清原(和博)さんがいて、2年目にはデストラーデが入ってきて盤石の野手陣でした。固定されていないポジションはレフトしかなく、若手が入り込む余地は全くなかったです。入団してから4~5年は一軍二軍を行ったり来たりでしたから、西武に入団したことを後悔したこともありましたね。同級生の谷繁(元信)君は大洋、立浪(和義)君は中日で1年目から一軍で活躍していましたから、もう少し早く一軍で活躍できる球団に入団していればと…今でもちょっと思いますね。

――鈴木さんはデストラーデが抜けた93年にレギュラーを獲得されたわけですよね。

鈴木 そうですね。このチャンスをつかまなかったら野球人生が終わるという気持ちや覚悟があったので、この年は特に頑張りましたね。

――翌94年も優勝して、チームはリーグ5連覇を達成しました。石井さんは94年の入団でしたね。

石井 僕は94年の優勝時はあまり投げてないので(3試合)、ほとんど戦力にはなっていなかったですね。

――石井さんは95年が17試合で、96年は35試合と登板数を伸ばしましたね。

石井 2年目からようやく登板できるようになりました。

鈴木 投手では工藤(公康)さん(95年)らが、野手でも清原さん(97年)らが移籍し、世代交代が進んでいた時代でしたね。

――トレードで秋山さん、FAで石毛宏典さんも抜け、黄金時代の主力メンバーがどんどんチームを去りました。チーム内はどんな感じでしたか?

鈴木 僕はレギュラーで試合に出ている時でしたが、松井稼頭央ら若い選手たちが思いのほか早く戦力になったので、戦力的には極端に落ちたという感じはしなかったですね。

石井 投手陣に関しても、ベテラン組は体力が落ちてきたこともありますし、そこに僕や西口(文也)が入団したことで、チームの世代交代はうまくいったと思います。

鈴木 90年代半ばに石井君や西口、豊田清森慎二と球が速くてイキのいい即戦力が入りましたから、抜けていった投手たちと遜色なかったと思いますよ。野手陣は長打を打つ選手が抜けてしまいましたが、機動力を使ってつなぎの野球に徹することができたので、チーム自体も低迷しなかったですね。優勝はできなかったですが、Aクラスにはいましたからね。

――確かに機動力は使っていましたね。ちなみに97年にチームで200盗塁をしています。

石井 (鈴木)健さんは走ったんですか?

鈴木 走ったよ(笑)。

石井 健さんは打ってくれるから、走らなくてもいいんですけどね。

鈴木 足の速い選手はノーサインで走れるんですけど、僕らはサインが出ないと走れなかったんですよ。でも走れる自信はありましたね。ピッチャーが警戒をしなかったのでモーションが大きかったし、牽制も少なかったです。ただアウトになると迷惑を掛けるのでサインは守りましたね(笑)。



投手陣には厳しかった東尾監督


――世代交代の時は東尾修監督でしたが、どんな監督でしたか?

鈴木 ピッチャー出身の監督だったので、野手だけの練習やミーティングに来られることはあまりなかったですね。僕はキャンプの時にバッティングピッチャーをしていただいて、気持ちよく打たせてもらった印象が強いですね。

――それでも機動力野球を推奨して、野手陣に変化を与えましたよね。

鈴木 皆さんのイメージとしては、多分大雑把に見えたと思うのですが、緻密な野球をしていましたね。そういうところは優れていたと思います。

石井 東尾監督はピッチャーには厳しかったですよ。例えばランナー一塁でノーマークにはしていないんですが、ノーマークにしているように見えてしまうと、かなり厳しく怒られましたからね。でも若手を思い切って使ってくれたことが僕には良かったですね。

――97年は3年ぶりにリーグ優勝をしたのですが、石井さんをリリーフにしましたね。

石井 僕は真っ直ぐしかないので、使うリスクはあったとは思うんですけど、思い切って起用していただいたお陰で、いいピッチングができました。

鈴木 石井君は真っ直ぐがすごくて、あとはそこそこの変化球でした(笑)。でも、真っ直ぐで空振りが取れるピッチャーはそういないんですよ。そういう意味では適材適所だったと思います。それからハートが強かったですね。監督はそういうところもちゃんと見抜いていました。

石井 強ぶっているだけでしたけどね。

鈴木 でも競った試合の終盤や、ピンチの場面でマウンドに上がるわけですから、気持ちで負けているようなピッチャーだったら通用しなかったと思いますよ。

――リリーフはやはり強気が大事ですよね。97年10月3日のダイエー戦の延長10回裏、鈴木さんのサヨナラ本塁打でリーグ優勝を決めました。

鈴木 本拠地での試合も残り3試合でしたし、延長10回で二死ランナーなしだったので、一発を狙いに行きましたね。狙って打てたので本当に気持ちよかったですよ。ベースを一周してみんなに祝福を受けるじゃないですか。あえてこいつ(石井)って言いますけど、足で蹴りを入れてきましたからね(笑)。

石井 先輩には大変失礼なんですけどね。それぐらい嬉しかったんですよ(笑)。



――まさに四番の一発で決めたのですが、この年は清原さんが抜けて四番になり、石井さんも59試合に登板しました。

鈴木 キャンプでは垣内(哲也)君が四番で、僕が三番の構想だったんですよ。ただオープン戦で垣内君があまり結果を出せず、逆に僕は結果を残せていたので、四番に座ってシーズンを迎えました。まさか清原さんに代わって四番になれるとは思っていませんでしたが、とにかく自分のできることを精一杯やるだけと考えていました。打順に関係なく打点にこだわり、勝負強いバッターになりたいという気持ちでした。



石井 僕はこの年102イニング投げていますよね。ベテランの先発陣が長いイニングを投げられなくて、結構ロングリリーフもしていましたね。ちょっと肩にきていましたけど。でも、信用して使ってもらえたし、結果も出せたし、初めて優勝に貢献できたので良かったですね。



――翌98年にリーグ連覇を達成するのですが、前半は日本ハムが独走して西武は低迷していました。残り20試合で初めて首位に立ち、貯金9での優勝でした。

鈴木 もちろん選手は諦めずにやっていました。日本ハムが落ちてきても、こちらも勝たないと上には行けないわけでしたからね。最後は、前年の優勝した経験が大きかったと思いますね。

石井 オールスターゲーム後に、日本ハムとは10ゲーム差あったんですよ。さすがにその時は無理だと思いましたね。でも日本ハムが負け出してきて…。シーズン終盤に日本ハムとダブルヘッダーやりましたよね。

鈴木 やったね。

石井 第1試合は西口が先発して勝ち(6対3)、第2試合は僕が先発して連勝(3対1)。マジックを一気に4つ減らして4になりました。

鈴木 優勝が決まった時もダブルヘッダー(10月7日=近鉄戦、優勝決定は第2試合)だったよね。

石井 そうでしたね。

鈴木 この時はチームに勢いがあったので、あまり負ける気がしなかったですね。

――この年、石井さんは先発中心で初めて規定投球回に達して防御率3位でした。鈴木さんは残念ながら3年連続3割には到達できませんでした。

石井 ピッチングのコツも分かってきて、先発としてやっていけそうな自信がついた年でしたね。

鈴木 続けて3割を打つのはなかなか難しいですよ(笑)。

石井 健さんはバットコントロールがすごかったので三振をしなかったですよ。相手投手は苦労したと思いますよ。

――対戦相手じゃなくて良かったですよね。鈴木さんは石井さんが投げている時、声掛けなどはよくしていたのですか?

鈴木 いい時は特に何もしなかったですが、悪い時はカッカしているのが分かるんですよ。コーチやキャッチャーはマウンドに行く制限回数があったので、僕が間を取りに行きましたね。

石井 健さんは絶妙なタイミングで来るんですよ。僕が完全に怒っている状態も笑いながら来るんです。何かと癒やされましたね。

鈴木 打たれるとロジンバックを投げたり、雄叫びを上げたりして分かりやすかったですよ。でも、マウンドに来てほしくないピッチャーもいましたね。

石井 誰とは言いませんが…いましたね。

――お二人が西武在籍時では、02年もリーグ優勝しました。

鈴木 僕はその時にはほとんど戦力になっていなかったんで…(65試合出場)。オフにはヤクルトにトレードになってしまいましたし…。

石井 僕も10勝できなかった(8勝)ので…。

――97~98年にリーグ連覇した時とはメンバーも替わっていました。若手の台頭もありましたね。

石井 若手の台頭でちょっと焦っていた時期でしたね。特に(松坂)大輔の存在がね。ルーキーの時(99年)のピッチングが衝撃的でしたから。

――99年は石井さんも13勝しました。

鈴木 松坂入団でいい刺激を受けたんでしょうね。負けたくない意識は相当あったと思いますよ。

石井 オールスター前まで同じ9勝4敗で、(松坂)大輔に「オレについてこい」と偉そうに言ったんですけど、後半は突き放されてしまいました(松坂=16勝)。

――最後に今年の西武はいかがですか?

石井 その当時の面影があまりないんですよね…。

鈴木 どうしちゃったんだろうね…。

石井 打撃陣はそれなりに打つので問題はないのですが、やはり投手陣ですね。特にリリーフがなかなか育たないですね。抑えは髙橋朋己がいますが、セットアッパーが弱いですね。

鈴木 そこが確立すれば、先発陣も楽になると思うんですが…。勝ちパターンができていると相手も嫌ですからね。

石井 僕がコーチの時は、先発陣に「勝ちたければ7回を投げ切らないとダメだよ」と言っていました。

鈴木 現状からするとそうなるよね。

――強い西武を見たいですよね。

鈴木 OBとしては強くなってもらいたいですね。解説の時でも、負けているとどうしても言葉が少なくなってしまうので、ぜひ勝ち試合で解説したいですね。

石井 僕は強い西武に憧れて入団しましたので、ぜひまた強くなってほしいですね。



PROFILE
鈴木健 すずき・けん◎1970年1月13日、埼玉県越谷市生まれ。浦和学院高時代は2、3年夏に甲子園に出場し活躍。ドラフト1位で88年に西武に入団。二軍では90、91年に連続首位打者を獲得し非凡なバッティングセンスを披露。93年に一軍に定着し95、96年に連続3割をマーク。97、98年は主軸としてリーグ連覇に貢献した。03年にヤクルトに移籍し首位打者争いをしてカムバック賞を受賞した。07年限りで現役を引退。通算成績は、1686試合、1446安打、189本塁打、797打点、打率.278。

PROFILE
石井貴 いしい・たかし◎1971年8月25日、神奈川県綾瀬市生まれ。藤嶺藤沢高から三菱重工横浜を経てドラフト1位(逆指名)で94年に西武に入団。2年目から頭角を現し、97年には10勝9セーブを挙げ優勝に貢献。99年には自己最多の13勝を挙げた。04年にはシーズン1勝ながらプレーオフで胴上げ投手となり、日本シリーズでも2勝を挙げMVPを獲得した。07年限りで引退し、08~13年はコーチを務めた。通算成績は、321試合、68勝58敗13セーブ、26ホールド、671奪三振、防御率3.78。

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