1年目に44試合で20盗塁という圧倒的なスピードを見せた。しかし足に大ケガを負い、本格復帰へと進む途中で自身本来のスタイルに向き合うことになった。理想の野球選手へ。迷いなき信念が背番号35にはある。 文=上岡真里江 写真=高塩隆、BBM 1年目に待っていた苦難
プロ4年目。若林楽人はいま、ようやく
「“野球”ができている」と目を輝かせる。
ルーキーイヤーの2021年、開幕一軍入りを果たし、2戦目でスタメン出場を果たした大卒外野手は、半月も経たない4月半ばには主に一番・左翼として定位置を確立した。レギュラー起用にあたり、最も評価されたのが『俊足』。3、4月に12個、5月に8個の盗塁を成功させ、出場44試合で20盗塁という驚異的な数字で「スーパールーキー」として一気に注目を集めた。
だが、プロ野球の世界、もっと言えば、人生はそんなに甘くはない。『日本生命セ・パ交流戦』に突入して2カード目で迎えた5月30日の
阪神戦(メットライフ)。3回表の外野守備での打球処理の際、左膝前十字じん帯損傷という大ケガを負い、長期戦線離脱を余儀なくされるという厳しい苦難が待っていた。
これまでの野球人生の中でも、
「ここまで大きなケガは初めてだった」という若林。ショックの大きさは想像を絶する。だが、その一方で同年の秋には「ケガをする運命だった」と自らに訪れた試練を真摯に受け入れられてもいた。
「春キャンプ(A班帯同)からずっと気を張り詰めてやって、そのままシーズンが開幕して、最初はレギュラーでもなかったですし、自分がプロで通用するかどうかもまだ分からない状況だったので、もう本当に、右も左も分からず、無我夢中で自分のできることをやることだけに必死でした。そのときは思っていなかったですが、ケガをしたあとになって考えたら、あれだけ毎日、あの数を走るのに耐えられるだけの土台づくり、体づくりができていなかったなと、強く思いました。冷静になって考えてみると、過去にだってあんなに毎日120%で走っている選手はほとんどいないわけですからね。正直、あの当時、体的には試合が始まる前から疲れ切った状態だったなと、今になって思います」 「やむを得なかった」と納得はしていたとはいえ、やはりケガをした直後は不安ばかりが募ったという。そんなとき、ふと耳に入ってきたのが、Hump Backが歌う『拝啓、少年よ』だった。その「夢はもう見ないのかい?」の歌い出しで始まる歌詞が、弱っていた若林の心を強く揺さぶった。
「手術の前の日だったんですよね。本当にたまたまだったのですが、その曲が流れてきて。自分の中でも、もう1回走れるのようになるのかも分からないし、もう1回普通に野球ができるのかも分からない。『どうなるんだろう?』という感じだったところに、『夢はもう見ないのかい?』と問いかけてくる歌詞が、本当に沁みましたね」 術後も、そうした大好きな音楽や、さまざまな価値観を持つ人の考え方など、積極的に琴線に触れることによってメンタルを回復していきながら、
「もう一度あの舞台へ」と、一軍復帰へ向けてひたすらリハビリに専念した。
そして翌春の22年5月31日、奇しくも同じ阪神戦(甲子園)で・・・
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