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野球浪漫2025

巨人・船迫大雅 長く険しい回り道の先に「遅いプロ入りだったけど、その経験があったからこそ、今がある──」

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何度も挫折を味わってきたからこそ、あまりにも遠い回り道をしてきたからこそ、今の自分と居場所に満足することはない。ようやくたどり着くことができた夢舞台で、さらなる高みを目指し続けていく。
文=北川修斗(スポーツライター) 写真=桜井ひとし、BBM


3度にわたる絶望


 プロ野球最古の歴史を持つ伝統球団で、球団史上最年長の28歳にして新人王に輝いた。「28歳で新人王というのは、周りの人はどう思うか分からないけど、結果として示すことができてよかった。獲れて素直にうれしい」と胸を張ると、NPBアワードで行われた受賞会見では自らのキャリアを踏まえ、こう口にした。

「遅咲きではありますけど、自分の姿を見て、プロを目指している選手たちはあきらめないでやってほしい」

 昨季は救援として51試合に登板し、4勝22ホールド、防御率2.37の好成績で巨人のリーグ優勝に貢献。どんなピンチでも動じない度胸満点の投球が持ち味の船迫大雅は、あきらめなかったからこそ、プロの舞台にたどり着いた。それを実感している男の思いが表れた言葉だった。

 2022年秋のドラフト会議で5位指名を受けたときはすでに26歳。社会人4年目での悲願だった。プロ志望届を提出していた東日本国際大4年時から計3度の指名漏れを経験。「僕は野球人生で3回死んでいます」と当時の心境を振り返る。

 1度目の絶望は大学時代だ。東日本国際大では1年生からエースとして活躍。南東北大学野球連盟リーグ戦では通算44試合で34勝を挙げ、全日本大学選手権、明治神宮大会のマウンドも経験した。4年時は春秋ともにリーグ戦のMVPにも輝いた。

 周囲からの期待も高かった右腕は、ドラフト当日の会見場でそのときを待った。しかし、隣でモニターを見ていた同期の粟津凱士西武から4位指名を受ける中、自分の名前は最後まで呼ばれることはなかった。悔しさを押し殺してはいたものの、「すごい悔しかった。大学まで生きてきた中で一番屈辱的な時間だった」

 放心状態で、校舎の裏口から寮までのわずか徒歩5分の道のりを歩んだ。「寮にどうやって帰ったのか……。本当にその記憶もないんです。泣いた記憶しかない。それまでの野球人生を振り返っていて“なんで”“なんでなんだ”って自問自答をした覚えしかない」と明かす。

 それでも失意の船迫に同期たちが寄り添ってくれた。「投手陣が“気晴らしに行こう”って連れ出してくれた。感謝しかない」。励ましの言葉や後押しを受けたからこそ、次のステージへと切り替えることができた。

 2度目は指名解禁となった社会人2年目だった。社会人野球の強豪・西濃運輸に進むと、1年目から公式戦に登板するも、解禁年は都市対抗野球への出場は叶わずアピールすることができなかった。「自分としても貢献できてないというのもあって、自信のないドラフトだった。当然“ないだろうな”って」。ドラフト後の本戦は東邦ガスの補強選手として出場。翌年へ向けたアピールへ、二番手で登板して打者1人を3球三振に斬って取った。

 そして3度目。今度は、自チームを都市対抗野球に導くことができたが、やはり指名はなかった。というのも、この2年間は東京五輪との兼ね合いにより、通常7月の都市対抗野球が開催されたのは11月。本来ならスカウトへの大きなアピールの場となる大会が、ドラフト終了後に行われていたのだ。予選を通じてアピールを続けていたが、届かなかった吉報。「自分的には野球人生、終わろうって覚悟した3年目だった」。野球を悔いなくやめるため、右腕はそんな決意で本戦の舞台に臨んでいた。

「150キロを投げて終わりたい」

 日本製鉄かずさマジックとの1回戦。燃え尽きるつもりでマウンドに上がった右腕は・・・

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苦悩しながらもプロ野球選手としてファンの期待に応え、ひたむきにプレーする選手に焦点を当てた読み物。

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