
当時23歳だったカイリー。かなりガッチリした体型だったようだ
プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は8月8日だ。
1953年、日本球界におけるエポックメーキングとなる事件が起こった。
元メジャー・リーガーの日本球界デビューである。来日前の51年レッドソックスで7勝を挙げていた毎日(現
ロッテ)の左腕、
レオ・カイリーだ。ただし、日本に来たのは、日本球界移籍のためではなく、兵役としてである。
当時、朝鮮戦争真っ只中、日本の基地に駐留する米軍兵も多く、その中には米球界経験者もいた。彼らがほかの野球好きと一緒に基地別にチームを作り、日本の二軍チームと対戦するのも珍しくなかったという。その中で兵役の休日に、一軍で投げる“アルバイト選手”が登場。西鉄の
三原脩監督が先駆者で52年に
オニール、
ワイヤット、53年にロング、ペインと契約したが、彼らにはメジャー経験がなかった。
史上初の元メジャー・リーガー、カイリーの初登板が53年の8月8日、甲府での西鉄戦だ。4番手で登場し、
中西太、
塚本悦郎にホームランを打たれ3失点を喫しながらも勝利投手となっている。
中西は「全部シュートして素直な球が1つもなかった。スクリューボールがすごかった」というから、タイプ的にはいまのメジャーでツーシームを駆使する投手と大きく違ってはいないようだ。
毎日の日系人監督・
若林忠志が自ら足を運び、スカウト。1試合10万円の契約だったという(当時の選手の月給は4、5万円)。結局カイリーは、8月30日までに6試合投げ、6勝0敗、防御率1.80。この年の7月に朝鮮戦争が休戦となっていたこともあり、除隊が早まって毎日もそこで退団。翌54年からレッドソックスに復帰した。
なお驚いたのはバッティングだ。19打数10安打、打率.526と打ちまくったが、こちらについてギャラが出たかどうかは定かでない。54年以降、日本球界でのアルバイト投手は禁止となっている。
写真=松村真行