プロ野球史を彩ってきた数多くの名選手たち。生まれた世代ごとに週刊ベースボールONLIN編集部がベストナインを選定して、“史上最強世代”を追いかけてみる。 戦争の悲劇も伝える“第2期黄金世代”
投打に名選手が並び、打線は破壊力、機動力ともに抜群。1916年生まれの世代に続くプロ野球“第2期黄金世代”だ。エースは通算310勝の別所毅彦(昭)。1リーグ時代の47年に南海でプロ野球記録のシーズン47完投で30勝を挙げた鉄腕で、のちに巨人でエースとして活躍した。
打線の中心は
大下弘だ。終戦からわずか3カ月後の45年11月に、戦後初のプロ野球の試合として開催された東西対抗戦でデビュー。“青バット”を相棒に、虹のアーチを架け続けた長距離砲だ。
【年生まれのベストナイン】(1922年4月2日〜23年4月1日生まれ)
投手 別所毅彦(巨人ほか)
捕手
筒井敬三(南海ほか)
一塁手
安居玉一(
阪神ほか)
二塁手
金山次郎(松竹ほか)
三塁手
山川喜作(巨人ほか)
遊撃手
白坂長栄(阪神)
外野手
小鶴誠(松竹ほか)
大下弘(西鉄ほか)
呉新亨(巨人ほか)
指名打者
ジョン・ブリットン(阪急)
戦後復興の象徴となった大下の一方で、戦争によって夢も命も奪われたプロ野球選手が少なくないのも、この世代の特徴と言える。
鉄腕伝説で別所に負けていないのが
林安夫(朝日)だ。42年の投球回は541イニング1/3は不滅のプロ野球記録。2017年の規定投球回が143イニングだから、現在のプロ野球ではシーズン中に3度も規定投球回をクリアしたことになる。しかし、林は44年に戦死。
翌45年、特攻で散ったのが
石丸進一。自ら特攻機を操縦して戦死した唯一のプロ野球選手でもある。肺結核と闘い、時にはマウンドで吐血しながら、2年で113試合に投げまくり、43年に病死した
神田武夫も同世代だ。
もちろん、彼らの通算成績は別所に遠く及ばない。しかし、もし彼らの命が奪われることなく、プロ野球選手として活躍を続けていたら……。歴史に“if”はないが、そんな空想さえできないとしたら、あまりにも残酷だ。
“事件”の主役と脇役も
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南海・筒井敬三
打線で大下とクリーンアップを組みそうなのが小鶴(飯塚)誠。“和製ディマジオ”と呼ばれた大砲で、通算230本塁打は大下を上回る。その小鶴と松竹“水爆打線”を形成したのが金山次郎。史上初の通算400盗塁に到達した韋駄天で、ここでもリードオフマンになりそうだ。
名二塁手の白坂長栄は名遊撃手の
吉田義男が入団するまでは正遊撃手だったため、ここでは遊撃に。その阪神で“ダイナマイト打線”の一角を担ったのが一塁の安居(玉置)玉一。三塁の山川喜作も戦後の巨人で三塁、遊撃を守った強肩内野手だ。
外野は大下、小鶴と、44年の盗塁王でもある呉新亨(元敝、萩原寛)。指名打者のブリットンは長打力こそないものの、在籍2年とも規定打数に到達しながら通算25三振という、三振が極端に少ない巧打者だった。
投打に盤石、と言いたいところだが、火種がくすぶっているのが別所のいるバッテリー。捕手は筒井敬三で、別所と南海でバッテリーを組んだこともあるが、別所が南海から巨人に引き抜かれて大騒動となった“別所引き抜き事件”の余波で、遺恨試合の様相を呈していた南海と巨人との試合で49年に勃発したのが“三原ポカリ事件”。
クロスプレーをめぐって紛糾した際に巨人の
三原修監督が南海の選手を殴打したものだが、その選手こそ筒井だ。だが、このナインには“平和台事件”で暴徒と化したファンから毎日の選手を守った大下がいる。西鉄時代のように精神的支柱としても、チームを支えることになりそうだ。
写真=BBM