打撃投手初日の初球に中畑清への死球でイップスに
JR関内駅から徒歩5分。スポーツラウンジ「WAI WAI」代表・
竹下浩二(54)は横浜大洋ホエールズ(現
横浜DeNAベイスターズ)で5年間の現役生活を終えると、1987年から巨人で13年間打撃投手を務めた。
王貞治(現
ソフトバンク球団会長)、
藤田元司、
長嶋茂雄(現巨人終身名誉監督)と3人の監督の下で5度のリーグ優勝を経験。「王さん、藤田さん、長嶋さんの下で裏方として仕事をするのはなかなかできない経験。優勝旅行も行けましたし、貴重な経験でしたね。僕は打撃投手1年目の初日にイップスになったんです。それを克服できたのも首脳陣、選手の方たちのおかげでした」と感謝を口にした。
兵庫県尼崎市で生まれ育った竹下は中学卒業まで野球チームに所属したことがなかった。地元の少年野球チームで手伝いしているとき、プロのスカウトに地肩の強さを評価されて沖縄県の興南高校へ野球留学。甲子園に3度出場し、早稲田実業の
荒木大輔(現
日本ハム二軍監督)とも投げ合った。大洋に入団後もイップスで悩むことはなかった。
ところが、巨人での打撃投手初日に異変が起きた。当時主軸を打つ中畑清(元DeNA監督)、
原辰徳(元巨人監督)、
ウォーレン・クロマティに投げることになったが、最初の打者・中畑への初球で手首に死球を与えた。中畑が翌日に手を包帯でグルグル巻きにしている姿を見て青ざめた。
「縮こまってしまった。球を持っている感覚がない。空気を握っている感覚。捕手も捕れないぐらい球が散らばって。右打者に当てないように考えたらひっかけて。どうしていいか分からなかった」
それでも周囲は優しかった。原、
篠塚和典(元巨人打撃コーチ)に「もういいぞ。オレらが投げるから」と声を掛けられた。ブルペンで投球をしてもキャッチボールさえできない状況になったが、王監督は「気にしないで投げろ」と練習の合間に手取り足取り教えてくれた。
だが、状況は改善しない。春季キャンプ中は毎日つらくて「周りに迷惑をかけている。辞めさせてもらいたい」と考えるほど追い込まれていた。イップスが治ったきっかけは予想もしていない修正法だった。一軍を離れると、当時二軍の
須藤豊監督、
宮田征典投手コーチの方針でウォーミングアップ、練習と選手と同じメニューをこなすように命じられた。シート打撃でも「抑えろよ。打たれたらいかんぞ」と言われて投げ続けると気持ちが楽になった。

巨人で打撃投手を務めていた竹下浩二氏
徐々に制球が改善すると、オープン戦終盤の北関東シリーズ前に、多摩川グラウンドで一軍選手の打撃投手を命じられた。
「行ったら中畑さんがいて。『当てるなよ、おまえ!』『プロテクターもつけるか!』って明るく言ってくれました。どうしようと思ったけど、これで投げられなくなかったら辞めようと腹をくくった」
結果は打者の打ちやすい球を投げ続けてイップスを克服。中畑も「おまえも宇都宮に来い!」と喜び、一軍に再合流が決まった。
当時は5年が目標だった打撃投手を13年間務めた。
「中畑さんの明るいキャラクターに救われたし、原さんや篠塚さんも優しくしてくれた。宮田さんにもよく食事に誘ったりしてもらった。王さん、須藤さんやほかの方にも感謝の気持ちでいっぱいです。あんなすごい方たちが裏方の僕に気を遣ってくれる。ありがたいですし、忘れることはありません」
現在の飲食業でも大事にするのは人との絆。周囲に助けられ、挫折を乗り越えたからこそ今がある。
記事提供=ココカラネクスト編集部 平尾類 ココカラネクスト編集部