1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。 「素振りは4回目の食事」
2年連続で広島と近鉄の同じ顔合わせとなった1980年の日本シリーズ。79年の第7戦で日本一を目前にして、いわゆる“江夏(豊)の21球”で敗れ、雪辱を期す近鉄は、2勝2敗で迎えた第5戦に勝って王手をかける。79年は広島に王手を許して本拠地で迎え撃ったが、80年は敵地で1勝でもすれば日本一だ。
劣勢に立たされた広島だったが、本拠地で近鉄を迎え撃つことになった第6戦、いきなり初回から猛攻を仕掛ける。先頭の
高橋慶彦が右前打、
木下富雄がセーフティーバントで続くと、
衣笠祥雄は一邪飛に倒れたものの、四番の
山本浩二が四球を選んで一死満塁に。そこで打席に立ったのが水谷実雄だ。
打率は高くないが、日本シリーズの大舞台で勝負強さを発揮してきた“勝負師”。79年には第4戦の逆転2ランなど2本塁打、80年も第5戦までで2本塁打を放っていた。「いつでもゴルフに行けるように、車にゴルフバッグを積んでいた」と言うが、ここで値千金のグランドスラム。シリーズの流れを一気に広島へと引き寄せた満塁本塁打だった。
そのまま広島は連勝して2年連続で日本一に輝いたが、打率.192もあってかMVPは
ライトルに譲っている。ただ、勝負強さばかりが光ったのは日本シリーズだけ。安定感を兼ね備え、長打力も秘めた右のクラッチヒッターだった。
記念すべき第1回ドラフトで広島から4位で指名されて66年に入団。当時は投手だったが、高校3年で肩を痛め、1位を予定していた南海が指名を取りやめていた経緯もあり、やはり伸び悩む。2年目の67年、
根本陸夫コーチの指示で打者に転向。二軍では三塁など内野も守ったが上達せず外野手となったが、チームメートから「水谷を(守備で)使わんでくれ」という声が上がるほどだった。外野守備、そして打撃の猛特訓が始まる。「素振りは4回目の食事」と素振りを積み重ねた。
打撃開眼は71年。左翼の定位置を確保して外野のベストナインに選ばれる。打率.283は巨人の
長嶋茂雄、チームメートの衣笠に続くリーグ3位だった。セ・リーグを代表するエースに強いのも特徴で、巨人の
堀内恒夫、
ヤクルトの
松岡弘、当時は阪神にいた江夏をカモにしている。
76年には広島時代の最多となる26本塁打と長打力も発揮。78年はヤクルトの
若松勉との争いを制して打率.348で首位打者に輝いた。連覇の79、80年は特筆すべき記録は残していないが、すべての数字で平均点以上。山本、衣笠、ライトルらとクリーンアップを担い、相手投手にとっては不気味な存在だっただろう。
阪急での天国と地獄
81年はリーグ5位の打率.337。翌82年も打率.303をマークして、2年連続で打率3割を超える。だが、オフに
加藤英司とのトレードで阪急へ移籍。十分な実績を持つ大ベテラン同士のトレードだったが、プロ18年目で移籍した新天地で、さらに打撃が飛躍する。
打率.290と安定感こそ減らしたものの、初めて30本塁打、100打点の大台を突破して、最終的に自己最多の36本塁打、114打点。西武のテリー、南海の
門田博光らを抑えて打点王に。現役生活の総決算ともいえる最高のシーズンとなった。
だが、翌84年の開幕戦で運命が暗転する。右肩を高く上げてバットをマウンドの方向に寝かせる独特の構えでヘルメットの耳当てが手に当たるため、耳当てのないヘルメットをかぶっていたのだが、その耳に死球が直撃。当たったボールが真下に落ちたことからも、その衝撃をもろに耳で受け止めたことが分かる。以降は後遺症に悩まされ、阪急は優勝して日本シリーズでは古巣の広島との対戦となったが、本領を発揮できずに終わった。
85年限りで現役引退。不運なラストシーンだったが、それは打撃コーチとして大成するための序章でもあった。広島で
前田智徳や
金本知憲、近鉄で
中村紀洋、ダイエーでは
井口資仁、
松中信彦、
城島健司、
中日では
福留孝介、
井端弘和、
荒木雅博。教え子たちの顔ぶれからも、その手腕の高さが分かる。
写真=BBM