1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。 “親分”と江夏の遺伝子を継承
1981年に日本ハムへ移籍して、リーグ優勝の使者となった
江夏豊。クローザーとしての活躍もさることながら、波乱万丈のベテラン左腕としての貢献度も大きい。“親分”
大沢啓二監督から「一人前に育ててやってくれ」と頼まれて、教育係として“指導”したのが捕手の大宮龍男だった。
江夏がサインに首を振らなくなったことを喜ぶと、「甘い。まだアイツのために“ほうってやってる”。本当の捕手なら首を振ってるよ」。江夏のアドバイスは打撃にも及んだ。打撃不振に苦しみ、ベンチ裏で素振りをしていると、「バックスイングが大き過ぎるな」と一言。次の打席から快音を連発するようになったこともあったという。
もともと気が強い性格。まるで“親分”や江夏の遺伝子を受け継ぐかのように、強気のリードは急成長を遂げた。日本ハムの司令塔には長く
加藤俊夫が君臨していたが、故障もあって盗塁阻止率が下がっており、81年6月に新たな司令塔に。ささやき戦術も駆使し、駆使し過ぎて外国人選手に襲われることもしばしばだった(言葉の壁を越えて何をささやいたかは定かではないが……)。
「捕手はリード面が仕事の7、8割を占める」
と考え、ストレートを右打者には懐へ、左打者にはヒザ元へと果敢に要求するなど、気の強さはダイレクトにリードへと反映された。
戦国武将の知恵をリードの参考にしたこともある。一方で、投手陣が不調に苦しむと打撃も失速する傾向も。血液型による性格診断を参考に、江夏らA型には相手を信頼するリード、
木田勇らAB型には具体的なリードと、投手の血液型によってリードを切り替えるナイーブ(?)な一面もあった。
80年にサイクル安打を達成するなど、控え捕手の時期から強打は武器だった。81年は15本塁打を放つなど、バットでもリーグ優勝に貢献したが、翌82年は5月に頭部死球で左頬を骨折して、離脱。全治3カ月と診断されたが、闘志を爆発させて6月には復帰して、勝負強い打撃に火がつく。クリーンアップに並ぶ
柏原純一やクルーズ、
ソレイタら助っ人に勝るとも劣らない勝負強さで、得点圏打率こそソレイタに届かなかったが、満塁の場面ではクリーンアップを圧倒する強さを発揮する打率.667で“満塁男”の異名も取った。
前期はBクラス4位に沈んだ日本ハムだったが、そのバットとリードに引っ張られるかのように後期は快進撃。後期の開幕戦となった7月2日の近鉄戦(後楽園)では2本塁打を放って“恩師”江夏の通算200勝に花を添えると、最終的には自己最多の16本塁打で、日本ハムも後期優勝を果たした。プレーオフでは西武に敗れたものの、後期優勝への貢献度もあって、キャリア唯一のダイヤモンド・グラブに選ばれている。
強気のベテラン控え捕手として
85年からは出場機会を減らしたが、88年に“闘将”
星野仙一監督の率いる
中日へ移籍すると、星野監督の闘志と呼応するかのように、ふたたび輝きを放ち始める。司令塔は“愛弟子”の
中村武志だったが、持ち味でもある強気のリードはバッテリーを刺激。リーグ優勝への絶妙なスパイスとなった。
打撃でも貢献して、9月20日の巨人戦(ナゴヤ)では同点で迎えた10回裏、
斎藤雅樹から右翼ポール際へのサヨナラ本塁打を放っている。
90年に移籍した西武では、現役時代は巨人V9の司令塔だった
森祇晶監督の下、移籍1年目のキャンプやオープン戦では不振に苦しむ
工藤公康につきっきりで、その再生に腐心。開幕後は“若手専用”捕手となり、その存在は不動の司令塔だった
伊東勤も刺激した。以降、西武はV5、3年連続日本一を果たすが、その間、91年に3年ぶりの2ケタ16勝を挙げた工藤を皮切りに、再生、あるいは一本立ちした投手は少なくない。
92年限りで現役を引退したが、“投手再生屋”が残したものは大きかった。ちなみに、中日も西武も移籍1年目にリーグ優勝。バッテリーを刺激する強気のベテラン控え捕手、という独特の存在感が機能していた傍証といえるだろう。
写真=BBM