1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。 平松のラストイヤーに大洋へ
ある夜。チームの宿舎となっているホテルでのことだ。合宿所であれば、真夜中であっても食堂には余ったごはんもあるのだが、当時は、現在のように冷凍食品の自動販売機などが置いてあるホテルはない。腹が減って腹が減ってしかたのない大食漢は、冷凍庫の氷をボリボリ、ボリボリ。暑がりでもあり、夏場には清涼飲料水をガブガブ。やはり当時は現在のように空調は整っていないから、真夏の夜には冷蔵庫で1時間ほど頭を冷やしてから、足を突っ込んで、そのまま寝たこともあったという。
岩手県で育ち、色白の風貌ということもあったが、愛称の“白熊クン”は、絶妙なネーミングだったと思わされる。
ロッテから1984年に移籍した大洋で台頭した欠端光則。強靭な上体を利して先発、救援に投げまくり、低めへの制球とフォークで苦しい投手陣を支え続けた右腕だ。
80年の夏、岩手は福岡高のエースとして県大会の決勝で完全試合ペースの好投を演じてチームを19年ぶりの甲子園へと導く。このころからフォークを駆使しており、ドラフト3位で指名されてロッテへ。2年目の82年に一軍デビュー。10試合目の登板となった6月8日の西武戦(西武)で、黄金時代へ突入していく西武を相手にノーヒットノーランをもうかがう快投を見せる。7回裏に初安打、9回裏には1点を奪われたものの、完投でプロ初勝利。だが、その1勝のみでシーズンを終えると、翌83年も2勝にとどまり、オフに2対2のトレードで大洋へ移籍した。
大洋1年目の84年は、長くエースとしてチームを引っ張ってきた
平松政次のラストイヤー。その座を継承した
遠藤一彦がプロ野球で初めて貯金ゼロの最多勝に輝いたシーズンでもある。前年まで2年連続セーブ王だったクローザーの
斉藤明夫も疲労の蓄積もあったのか救援に失敗することも少なくなく、大洋は前年の3位から一気に最下位へと転落した。そんなチームにあって、じわじわと存在感を発揮していく。
阪神の“猛虎フィーバー”に沸いた85年は、三冠王のバースを打率.182に抑え込むなど、各チームの主軸をカモに。
広島の
山本浩二は打率.200、巨人の
原辰徳は打率.100、
中日の
宇野勝は打率.167、
ヤクルトの
若松勉は打率.077。一方で、優勝は逃したとはいえ黄金時代にある広島に強く、無傷の5連勝と“鯉キラー”ぶりも光った。最終的には初めて規定投球回に到達。リーグ最下位に終わった巨人の
江川卓だけは上回るブービーの防御率5.07と苦戦したものの、9勝を挙げてチームの最下位脱出に貢献した。
遠藤のラストイヤーにフル回転
86年はプロ初完封を含む7勝。翌87年は右ヒザの故障でファームへ落され、体重を8キロ落として復活する。苦手(?)な夏場、8月16日の阪神戦(横浜)では3安打を許しながらも打者28人を92球で片づける完封勝利。10月に遠藤がアキレス腱を断裂して離脱したことで、翌88年には開幕投手を任される。
その4月8日の中日戦(ナゴヤ)は1失点の完投勝利。以降3試合連続で完投勝利とチームに引っ張っていく。暑くなってきたこともあったのか(?)6月に崩れたが、先発に回った斉藤と入れ替わるように救援のマウンドに立つと復調。唯一の2ケタ勝利となる11勝、リーグ10位の防御率3.22で、キャリアハイのシーズンとなった。翌89年も9勝と2ケタには届かなかったが、リーグ10位の防御率3.31をマークしている。
90年代に入ると勢いを失っていったが、不死鳥のごとくよみがえったのが遠藤のラストイヤーとなった92年だった。すべて救援のマウンドでリーグ最多の55試合にフル回転。4勝1セーブ、規定投球回には届かなかったものの防御率3.10と結果を残した。
ただ、この酷使はヒジへの負荷となり、手術を受けたものの翌93年の登板は2試合のみ、続く94年は登板なし。それでも現役を続行するつもりだったが、ヒジの状態が改善せず、オフに現役を引退して打撃投手に。その後もフロントに転じて、チームを支え続けている。
写真=BBM