1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。 82年からは悪夢の11連敗も
近鉄で1980年の連覇に貢献した“猛牛戦士”たちで、88年“10.19”の雪辱を果たした89年にチームを去っていった選手は少なくない。「未完の大砲」と呼ばれ、89年オフに現役を引退した
羽田耕一も、そんな1人だった。去り方こそ違え、左腕の村田辰美も同様に、70年代に頭角を現して、80年代の近鉄を支え続けた“猛牛戦士”。口ヒゲがトレードマークだった左の変則サイドハンドだ。
六郷高では秋田県大会で1試合18奪三振をマークして、三菱自動車川崎を経てドラフト2位で75年に近鉄へ。近鉄には絶対的な左腕エースの
鈴木啓示が君臨していたが、その後継者として期待を受けた。だが、一軍登板こそ果たしたものの、3年間は芽が出ず。生き残りをかけて、ピンチで左打者1人を抑えるワンポイントに挑戦した。
3年目となった77年の後期を前に、捕手の
有田修三とのキャッチボールでサイドスローを試して、そのまま転向。美しいフォームより打者に嫌がられるフォームを目指した。大きく振りかぶってから、上体を曲げるサイドスローのフォームに移り、そこから再び上体を起こしてオーバースローのようになって、サイドスローから投じることで打者を幻惑。さらに左打者の内角を鋭く突く
シュートも習得したことで、まずは“左キラー”として信頼を得た。
79年は先発としてリーグ最多の3完封を含む12勝2セーブで近鉄の初優勝に貢献。先発、救援の併用だった4月に4勝を挙げるなどスタートダッシュの立役者となり、敗れれば2位に転落する前期の最終戦では1失点のみで完投して引き分けに持ち込んで、胴上げ投手にもなっている。
救援のマウンドではストレートにカーブ、シュートを織り交ぜる程度だったが、先発に回ってからはチェンジアップやカットボール、スライダーも駆使。球種を増やした一方で、長いイニングを投げ続けるために球数を減らすことを心がけた。
だが、リーグ連覇の80年は7勝2セーブも、前年ほどの安定感には欠ける。以降3年連続7勝も、82年7月からは勝ち運に見放されて、翌83年8月まで悪夢の11連敗。パニックに陥りながらも、投げ続けることでスランプを脱出していった。そして、その11連敗で精神的にも成長していく。
初球で捕手の狙いを読んで打ち取り方を考え、ベースの幅、高低に奥行きも使って、打たれると感じたら寸前で外す。連敗をストップさせた83年が2勝、翌84年は4勝、その翌85年には9勝2セーブ。3年連続で負け越したものの、着実に復調しつつあった。
86年から2年連続で開幕投手に
迎えた86年。プロ12年目、34歳を迎えるシーズンだったが、
岡本伊三美監督から開幕投手を任される。その4月4日の
日本ハム戦(藤井寺)では8回表まで4安打1失点に抑える好投も9回表に打ち込まれて逆転負けを喫したが、シーズンでは自己最多の14勝を挙げて、8年ぶりの勝ち越し、そして2ケタ勝利と期待に応えた。オフに引退した西武の
大田卓司から「お前の内角ストレートが打てないから引退する」と言われたが、実は手元で少し曲がるスライダーだったという。翌87年も2年連続で開幕投手となり、その4月10日の
ロッテ戦(藤井寺)では
村田兆治との“村田対決”を制して勝利投手に。
「開幕投手を2回、務めたことで、ハクがついた。相手にも一目置かれ、とても名誉なことだと思う」
と振り返る。88年も3度目の2ケタ10勝。規定投球回には届かなかったが、わずか3敗と大いに貯金を稼いだ。だが、翌89年には4勝を挙げたところで、肩が飛ぶ。後半戦は登板機会がなく、退団。
須藤豊監督に請われて大洋へ移籍した。
初めてのセ・リーグで復活に懸けたものの、故障のため思うように投げられず。オフに1年の契約延長を打診されたものの断り、
広島の
山本浩二監督、
中日の
星野仙一監督からも誘われたが、
「肩が壊れて、もう投げられない」
と、すべて断って現役を引退した。
写真=BBM