首脳陣を含めて91人――。ライオンズで支配下、育成選手72人より多いのがチームスタッフだ。グラウンドで躍動する選手たちだけではなく、陰で働く存在の力がなければペナントを勝ち抜くことはできない。プライドを持って職務を全うするチームスタッフ。獅子を支える各部門のプロフェッショナルを順次、紹介していこう。
ワンバウンドを止めるのが売り
ブルペン捕手は天職だと思っている。
何よりも投手のボールを捕球することが好きだ。今年でブルペン捕手生活11年目を迎えた田原晃司。現在は二軍担当で、生きがいを感じながら若手投手のために喜んで「壁」となっている。
「ブルペン捕手が『壁』と言われるのも誉め言葉だと思っています。現役の捕手も“捕って”“止める”ことができないと始まらない。盗塁を刺すことや配球は投手との共同作業。でも、キャッチングは個人の力ですから」
1993年、泉州高からドラフト6位で西武に入団した田原。当時は西武黄金時代だ。扇の要には大捕手・
伊東勤(現
中日ヘッドコーチ)がいた。さらに98年には
中嶋聡(現
オリックス二軍監督)がFAでオリックスから移籍。高校時代から本格的に捕手の技術を学び始めた田原にとって、一軍は遠い場所だった。
それでも二軍で黙々と練習を重ね、チャンスをうかがっていた田原。一軍初出場は9年目のことだ。2001年6月20日の近鉄戦(西武ドーム)。「八番・捕手」でスタメン出場を果たすも、同年はその1試合のみの出場に終わる。02年は再び二軍生活に終始したが、03年は9試合の出番が。そして、伊東がユニフォームを脱ぎ、監督に就任した04年、
細川亨(現
ロッテ)や
炭谷銀仁朗(現
巨人)のサポート役として出場機会を増やしていった。
04年は28試合、05年は46試合に出場。勝負どころの終盤にマスクを任させる機会が多かった。それは高い評価を受けていたキャッチングの技術があるからこその起用でもあった。
「僕の売りはワンバウンドを止めることでしたから」
当時、西武で勝利の方程式を担っていたのは
森慎二と豊田清だ。ともにフォークをウィニングショットとする右腕。どんな状況でも落ちるボールを後ろにそらさない田原は、両投手から大きく信頼されていた。
「ランナーが三塁にいても、初球からでもワンバウンドで。それをしっかりと止めれば、僕にとって大きなアピールになるじゃないですか。だから、もう、どんどんワンバウンドで投げてくれ、と。慎二は同級生でしたけど、“逸らしたら捕手の責任”というタイプでしたから(笑)」
ひと口にフォークと言っても、投手によって変化の軌道は異なる。
「慎二は長身から、そのまま叩きつけるような感じです。豊田さんは真っすぐの軌道から、ストンと落ちる。スピードも、落ち方もまったく違いました」
捕球のためのさまざまなこだわり

現役時代の田原ブルペン捕手(2005年撮影)
球界トップクラスのフォークを必死に、それでいて涼しい顔で止め続けたが、その裏には考え抜かれた工夫もあった。
捕球面の大きいミットと小さいミットの2種類を投手のタイプによって使い分けていたという。投手によって好みが違う。例えば森には大きいミット、豊田には小さいミットを使用していた。
「大きなミットで大きく構えたほうが投げやすい投手もいれば、小さなミットで小さく構えたあげたほうがいい投手もいる。些細なことですけど、投手が集中しやすい色もあると思います」
さらに、送球のしやすさを重視し、ミットのウェブは浅めに設計。紐はやや緩めにしていた。
「ウェブに遊びがあることで、捕球面が大きく開いて投手も見やすいはずです。また、タッチプレーの際には送球が右にズレても、ボールをネットに引っ掛けるようにしてタッチに行けますから」
さらに、アウトコースの判定が厳しい審判のときは、わざとウェブで捕球して、できるだけミットをストライクゾーンに入れるようにすることもあったという。
キャッチング自体は新人時代の先輩たちからの教え、ボールを“つかむ”のではなく、“包む”感じで捕球。生卵を割らないような感覚で、投手の手から放たれたボールをそっと包む。親指を下げて捕球しないことにも腐心。ミットを下がらないようにするためだった。
ファームでボールを受ける日々
2008年限りで16年にわたる現役生活にピリオドを打ち、ブルペンキャッチャーの道へ。ボールを捕ることに特化した新たな役割で、あらためて感じたことは音を鳴らすことがキャッチングではない、ということだ。
「やっぱり、投手にそのボールの軌道をしっかり見せてあげることが一番大事だと思います。だから、まずはミットでしっかり捕球することが第一。そこで1、2秒止めて『いいボールだね』と投手に返球する。それで、その軌道を投手が覚えてくれるのがベストでしょう」
もちろん、音が鳴ったほうがいいという投手がいれば意識をするが、基本的にそれは二の次だと考えている。
ブルペン捕手として昨年までの10年間、一軍でチームを支えてきた。
「一番の思い出と言えば、やはり昨年のリーグ優勝ですかね。ただ、僕は特に変わったことはしていません。投手の特徴をしっかり頭に入れて、いつもどおりに、練習で捕って、試合中のブルペンで捕って、投手をマウンドに送り出して、という毎日でした」
ただ、長く一軍にいるなかで、ファームで若手投手のボールを受けたい気持ちがふくらんでいった。
「若手野手が一軍に上がったとき、僕のことを知らないわけですよ。当然ですよね。練習でからむこともないわけですから。『何をしている人なんだろう?』という顔で見られる。そのとき、ふと二軍にいる投手のボールを僕は受けたことがない、と。彼らが一軍に上がって来たとき、どうすればいいのか……ということを何年か前から思っていて。とにかく、二軍の現状を知りたいな、と思うようになりました」

現在は二軍で主に若手投手のボールを受けている
そして、念願どおり今季から二軍へ配置転換となり、一軍とはまた違ったやりがいを味わいながら日々を過ごしている。
「一軍は勝ってナンボ。二軍にも勝負のシーズンを送る選手もいますけど、18、19歳と将来を見据えた選手もいます。僕はある意味、彼らに遊んでもらっているんですよ。試合後でも、『受けてもらってもいいですか?』と聞かれたら、『いいよ、やろう』と。本当にボールを捕るのは楽しいですから。とにかく上達してもらいたいし、いいきっかけになってもらいたいと思いながら、ブルペンに行っています」
“遊んでもらっている”というのは照れ隠しでもあろう。ただ単に、若手投手の相手をしているわけではない。二軍には現在、杉山賢人投手コーチ、
許銘傑投手コーチ、
清川栄治巡回投手コーチと3人の指導者がいる。田原はしっかりとそれぞれのコーチの言葉にも耳を傾けている。
「やはり、コーチによって言い方や教え方が違いますからね。それを僕らもある程度は聞いておかないといけません。この選手はどういうことを教えてもらっているんだろう、と。そうすれば『昨日、こういうことを言われていたでしょ』と口にすることもできますから。とにかく、なるべくコミュニケーションをとりながら。投手陣のレベルアップに少しでも貢献していきたいですね」
生まれ変わっても捕手になりたいと笑う田原。現在、44歳だが、少しでも長く、最低でも50歳までは現在の役割を全うしたいと夢をかなえるためにも日々、全力を尽くしている。
(文中敬称略)
文=小林光男 写真=BBM