ON決戦は選手も豪華
まるで「20世紀のNPBオールスター戦」だ。
一塁走者の
秋山幸二と一塁手の
清原和博がなにやら言葉を交わす写真が掲載された、『週刊ベースボール』2000年11月11日増刊号の第51回日本シリーズ特集を見ながら、そう思った。19年前、昭和プロ野球の象徴でもある
長嶋茂雄と
王貞治の両監督が対峙したON決戦だが、両チームの選手も異様に豪華だ。
まだ海外移籍もほとんどなかった国内FA市場と逆指名ドラフトの全盛期、平成前半に黄金時代を築いた
西武ライオンズの中心メンバーの秋山がダイエー、清原と
工藤公康がそれぞれ
巨人に在籍。のちに侍ジャパンを率いる
小久保裕紀、平成唯一の三冠王・
松中信彦、現
ロッテ監督の
井口資仁が鷹打線のスタメンに名を連ね、巨人には元
広島の四番バッター
江藤智や、まだ20代中盤の若き
高橋由伸、
上原浩治、
二岡智宏ら錚々たるメンツが顔をそろえた。最終的に、4勝2敗で長嶋ジャイアンツが日本一に輝くわけだが、MVPは打率.381、3本塁打、8打点の活躍で“ミレニアム打線”の四番を張った
松井秀喜。激闘賞は3試合連続を含む4本塁打を放った平成最高の打てるキャッチャー
城島健司。この数年後に両者はメジャー・リーグへ移籍することになる。
そんな球史の変わり目、今はすっかり強豪チームの
ソフトバンクだが、ダイエー時代の初優勝は福岡移転11年目の1999年(平成11年)のことだ。当時のホークスの外国人選手と言えば、00年日本シリーズ第3戦で先発して負け投手になった名前のインパクトでは負けていない
ブレイディー・ラジオ……じゃなくて、「投のペドラザ、打のニエベス」である。
日本行きという最後のチャンス

1999年、中日との日本シリーズで胴上げ投手となったペドラザはビールかけで大はしゃぎ
ロドニー・ペドラザは99年4月半ばに29歳で来日。メジャー経験はゼロで、3Aで投げたこともほとんどない。2Aと1Aを行き来する崖っぷちの中堅投手だった。それでも「日本で十分に通用するスピードだったし、制球が良く、球の出どころが見にくい長所があった」とダイエースカウトの目に留まるが、当初は交渉の窓口になる代理人すらついていなかったという。食事はたいていハンバーガー、オフの野球教室でなんとか食いつなぐ先の見えない日々。そうこうする内にじき30代になっちまう。「俺はもう28だ。背伸びなしで30が見えてくる。30は男が動かなくなる理由になる」とは人気漫画『宮本から君へ』の有名な台詞だが、ペドラザは日本行きという最後のチャンスにすべてを懸けた。
ダイエーも当初は先発を想定しての獲得だったが、5月から敗戦処理として投げ始め、徐々にベンチの信頼を得ていく。抑えの
岡本克道が右肩痛で離脱すると、ペドラザがクローザーへ昇格。アメリカ時代に右肩の手術歴があり連投への不安はあったが、ここで結果を残せなきゃ野球人生が終わってしまう。腹を括って投げまくった年俸2000万円の格安助っ人は48試合、3勝1敗27S、防御率1.98という好成績でチームの初優勝に貢献する。「史上初のドームシリーズ!」なんて煽りに時代を感じる99年の日本シリーズは
星野仙一率いる中日と激突。ここでもペドラザは当たり前のように3連投でリーグVに続き、シリーズでも胴上げ投手に。当時の週べにはこんな喜びのコメントが掲載されている。
「野球人生の中で最高の瞬間だ。3連投? 今日さえ頑張れば3カ月休めるのだから気にならなかった」
2年目の2000年はキャンプから連投を想定しての投げ込みも功を奏し、35セーブで初の最優秀救援投手を獲得。頼れる背番号50は2年連続の胴上げ投手となり、ONシリーズ前には「王監督と長嶋監督の間柄は詳しく知らないが、日本の野球史に残る、大きなイベントになるというのは分かっているよ」と意気込みを語っている。来日2年目のペドラザがこれだけ意識するのだから、やはりファンだけでなく参加選手も特別なイベント感は強かったのだろう。なお第1戦の関東地区でのテレビ視聴率は36.2パーセントまで跳ね上がった。
日本シリーズで特大の決勝アーチ

2000年のハワイV旅行で王監督(右)と握手を交わすニエベス
さて、王ダイエーの打の助っ人はメルビン・ニエベスだ。188センチ、109キロの巨体でメジャー通算63発の両打ちの大砲は99年に27歳の若さでダイエーへ入団。打撃練習では小久保や松中を圧倒する図抜けたパワーを見せつけ84試合で17本塁打(OPS.911)とまずまずの成績を残したが、290打席で105三振と粗さも目立った。2年目の2000年シーズンは開幕四番を務めるも、7月9日の西武戦で代打を送られると怒って宿舎へ帰る職場放棄で二軍落ち。結局、打率.216、15本塁打、38打点と期待外れの結果に終わるが、チームが緊急獲得した
ブライアン・バンクスもそれ以上に日本野球に適応できず、土俵際で一軍に残ったニエベスは10月の日本シリーズで意外な活躍を見せる。
初戦は3対3の同点で迎えた9回表に代打で登場すると、左打席に入り巨人の
槙原寛己から東京ドーム右翼席上段へ飛び込む特大の決勝アーチをかっ飛ばす。試合後の勝利監督インタビューで「まさかあそこで打つとはねえ。あ、まさかなんて言っちゃいかんか」なんつって世界の王が思わずひとりノリツッコミをかます一発でON決戦は幕を空けたわけだ(もちろん9回裏はペドラザがきっちり締めた)。
だが、本拠地の福岡ドームをシリーズ中の10月24日と25日に日本脳神経外科学会に貸し出していたため、23日(月)に東京から移動日なしで福岡の3戦目を開催。その後2日間空く超変則スケジュールの影響か、ダイエーは敵地で2連勝スタートをするも、その後4連敗であっさり終戦してしまう。ちなみに第6戦の9回表、最後の打者で
岡島秀樹から空振り三振を喫したのは、右打席に立ったニエベスだった。
今なお語り継がれる20世紀最後に実現したON決戦は、ニエベスに始まり、ニエベスで終わったのである。
文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM