緒方は9年で「9」に
緒方は広島で87年から95年まで背番号「37」を着けた
各チームには、それぞれ“出世ナンバー”といえる背番号が存在する。その背番号を着けた選手が結果を残し、他の若い背番号へと変更していくものだ。たいがいは2ケタ、それも30番台より大きい背番号で、“出世した”印象のある背番号は1ケタ、投手なら10番台から20番台の前半くらいまでだろうか。時代が平成となった頃から、
オリックスの
イチローや
巨人の
松井秀喜など、50番台の背番号のまま活躍を続ける名選手が増えたこともあり、50番台の背番号には“出世ナンバー”という印象は希薄になっていった感がある。
一方、40番台には、もともと助っ人の背番号というイメージがあるものが多い。プロ野球の歴史とともに登録される選手の数が増えていったこともあり、40番台も50番台も、ともに比較的、登場が新しい背番号でもある。一方で、かなり早い時期から登場しているにもかかわらず、選手たちが巣立つ“出世ナンバー”の印象から抜け出せずにいるのが30番台、特に後半の背番号だろう。広島の「37」も、そんな“出世ナンバー”といえる背番号。やはり時代が平成となったころから好打者を輩出するようになった縁起のいい背番号だ。ただ、現時点では、こうした傾向は平成という時代に限られている。
ドラフト3位で1987年に入団した
緒方孝市が先駆け的な存在だが、緒方も昭和の時代には一軍出場は1試合のみ。広島が20世紀で最後のリーグ優勝を飾った91年に初めて出場100試合を突破して、95年に47盗塁で初の盗塁王に輝くと、翌96年に「9」へと“出世”していった。そこから97年まで3年連続で盗塁王に。その後も2009年まで長きにわたってプレーを続けた。緒方にとっては「9」を着けた期間のほうが最終的に長くなったが、「37」の9年間も系譜では最長となる。
広島が創設された1950年に初代となった
紺田周三は28歳となるシーズンにプロのキャリアをスタートさせ、外野の控えのまま3年で引退したが、53年に2代目となった
米山光男(祐昭)はプロ3年目の55年には遊撃のレギュラーになっている。だが、米山は1年で「21」に変更していて、「37」での一軍出場はなし。これでは、米山にとって「37」は“出世ナンバー”とはいえそうにない。チームの低迷期が長かったこともあっただろう。その後も次々に投手と打者を問わず選手たちがリレーしていったが、真価を発揮できないまま終わることが続いた。
背番号を大きくしている松山
08年から14年まで背番号「37」を着けた松山
初めて“出世”しかけたのがドラフト6位で70年に入団して7代目となった捕手の
西沢正次だ。広島が初のリーグ優勝を果たす75年の前年、74年に自己最多の95試合に出場したが、そのオフに太平洋へ移籍して「10」に。移籍で“出世”といえなくもないが、西沢は悲願の初優勝を経験できなかっただけでなく、チームが
西武となると、80年シーズン途中にスティーブの加入で「44」に変更となり、そのオフに引退した。一方で、初優勝を果たしたチームは黄金時代へ突入したが、「37」は“低迷期”から抜け出せなかった。
時代が平成となり、緒方を経て「37」は西武から移籍してきた内野手の
野々垣武志が継承。野々垣がダイエーへ移籍したことで2001年には新人の
岡上和典(和功)が後継者となるも、故障に泣いて07年オフに引退する。迎えた08年、新たに「37」を背負ったのが、現役の
松山竜平だ。緒方と同様、ブレークには時間を要したが、13年に初めて出場100試合を超えると、翌14年オフに背番号を変更。このとき松山は若い背番号ではなく「44」、18年オフには現在の「55」に変更しており、背番号を大きくしている異色の存在だ。
現在は野間が「37」を背負っている
一方、15年から「37」を背負ったのが現役の
野間峻祥。ドラフト1位で入団して1年目から「37」で127試合に出場するなど、“出世”でも系譜で最速といえる韋駄天だが、背番号は変更せず。18年には初めて規定打席に到達してリーグ3連覇に貢献した。だが、時代が令和となり、出場機会は減りつつある。苦しい時期を過ごすのは“出世ナンバー”としての「37」の横顔でもある。野間には「37」を、時代を問わない“出世ナンバー”、あるいは自身の象徴に昇華させてほしいところだ。
【広島】主な背番号37の選手
紺田周三(1950〜52)
西沢正次(1970〜74)
緒方孝市(1987〜95)
松山竜平(2008〜14)
野間峻祥(2015〜)
文=犬企画マンホール 写真=BBM