ユニフォームを変えた男がプロ2年目に

1年目の山下。ルーキーイヤーは背番号「20」だった
巨人では空前絶後のV9を象徴する1人で、通算868本塁打を残した
王貞治が自身のトレードマークとして、また
西武とダイエー(現在の
ソフトバンク)では
秋山幸二が王の“後継者”のようにして背負い、さらには
ヤクルトでは“ミスター・スワローズ”の系譜として受け継がれ続けている「1」。近鉄ではチーム最多の通算317勝を残した
鈴木啓示が着けていたが、一般的に「1」は“チームの顔”といえる打者のナンバーだ。中心選手というだけでなく、存在も華やかなスター選手で、実力と人気を兼ね備えた存在といえる。
一方、起源の大洋から背番号の系譜に無頓着な
DeNAだが、「1」は一定の傾向が見受けられる。だが、それでも顔ぶれは独特で、ひと言で表現しづらい。“チームの顔”といえる選手が多いものの、そこに長距離砲の王や秋山、ヤクルトの“ミスター”たちのような派手さはない。スター性を備えた名バイプレーヤーとでもいうべきか、攻守走に万能で、それぞれに堅実さを見せた男たちが並んでいる。
筆頭格は
山下大輔だろうか。ドラフトでは“イの一番”で指名され、“プリンス”の異名もあったスター選手だが、異名の割には器用な選手で、プレーだけを見れば完全に職人タイプ。特筆すべきは遊撃守備で、グラウンドが土から人工芝へと変わっていった過渡期にあって、捕球も投球も柔らかくスマートだった。現役の終盤に回った二塁、三塁でも安定感は変わらず。一方の打撃でも、すべての打順を14年間の現役生活で経験している。
ちなみに、大洋は山下の入団で、その出身地である静岡の特産であるミカン、お茶の色をユニフォームに採用したが、チームのユニフォームを変更させた新人は長いプロ野球の歴史でも出色の存在。ただ、そのユニフォームの「1」を山下が着けたのは2年目の1975年からで、チームが川崎から現在の横浜へと移転したことでユニフォームも変更となり、山下は88年の開幕を前に突如として現役を引退。このため、88年は欠番となっている。
1年目は「20」だった山下が「1」を継承したのは、60年に入団、1年目から二塁手として初のリーグ優勝、日本一に貢献して、大毎(現在の
ロッテ)との日本シリーズではMVPに輝き、引退してもコーチとして「1」を背負い続けていた
近藤昭仁が「72」に変更したためだ。
近藤は監督としても「1」にこだわり?

大洋で60年から15年間、背番号「1」を着けた近藤
近藤まで「1」の系譜は安定せず、大洋がプロ野球に参加した50年から55年までは1人1年でリレー、タイガース(
阪神)で36年にプロ野球で第1号となる本塁打を放った7代目の
藤井勇が初めて3年にわたって背負い、藤井の引退で1年の欠番を挟んで近藤が継承した。プロ1年目から「1」でチーム初の日本一を経験した近藤は大洋を象徴する選手の1人だ。大洋は93年に横浜ベイスターズとして再スタートを切ったが、このとき近藤はベイスターズ最初の監督に就任。近藤から「1」を継承した山下も21世紀に監督として指揮を執っている。

89年のルーキーイヤーから4年間、背番号「1」だった谷繁
山下の後継者となったのは、最終的に通算3021試合でプロ野球の頂点に立つことになる
谷繁元信。ドラフト1位で入団して、いきなり「1」を継承したが、93年に就任した近藤監督から「『1』は内野手の背番号。プロテクターをすると見えなくなる」と言われて「8」に変更。98年のリーグ優勝、日本一では「8」の司令塔として貢献した。谷繁から「1」を継承、その98年も「1」を背負って、リーグ優勝を呼び込む決勝打を放った
進藤達哉も職人肌の万能タイプ。かつて山下がいた遊撃に愛着があったが、内野すべてで堅守を発揮してチームを支えた。
21世紀に入り、98年は「2」だった外野手の
波留敏夫が2001年の1年だけ着けると、同じ外野手で、20世紀の最後に新人王、首位打者となった「2」の
金城龍彦が翌02年から「1」となり、14年まで打線を引っ張る。しかし、金城の移籍で1年欠番ののち、16年に継承し新人の
熊原健人は投手。系譜に頓着しないチームの個性を炸裂させた。ただ、熊原は18年に「22」となって、期間は2年のみ。以降、「1」は現在まで、外野手で、攻守走に万能な
桑原将志が背負っている。
【DeNA】主な背番号1の選手
近藤昭仁(1960~74)
山下大輔(1975~88)
進藤達哉(1993~2000)
金城龍彦(2002~14)
桑原将志(2018~)
文=犬企画マンホール 写真=BBM