本塁打ゼロ、スイッチでも初めて
プロ野球選手である以上、活躍すれば脚光を浴びることになる。人気や注目を一身に集めることが目的でプロ野球を志した選手もいるのかもしれないが、野球そのものが志、という選手がほとんどだろう。20世紀の昔は人気のあるチームとないチームが明確に分かれていて、人気のあるチームをうらやむ選手も少なくなかったが、それでも人気を博すことが当初からの目的だったのではないはずだ。
1987年、プロ3年目にして首位打者のタイトルを獲得した広島の正田耕三は、身長170センチとプロ野球選手としては小柄ながら、当時の広島では伝統芸ともいえる猛特訓でスイッチヒッターとなり、着実に出場機会を増やしていった二塁手だった。レギュラーに定着して初めて規定打席に到達したのが、この87年。セ・リーグの首位打者は正田を含む4人の好打者によるタイトル争いとなり、もっとも若かったのが正田だった。
トップで10月に突入したのは
巨人の
中畑清だが、最初に脱落したのも中畑。競っていたのは同じく巨人の
篠塚利夫で、打率.333に落としたところで、巨人のリーグ優勝が決まったこともあって打席に立たなくなった。篠塚を追っていたのが
中日の
落合博満と正田。一時は篠塚に追いついた落合は最後で出場を続けて、打率.331で終える。日程が残る広島の正田は、打率.332のまま手首の故障で満足にバットを振れなくなっていた。
代走で出場を続けていた正田だが、首脳陣に説得されて1打席のみに立ち、そこでセーフティーバントを決めて打率.333として、最終的に篠塚と首位打者のタイトルを分け合うことになる。スイッチヒッターとして、そして本塁打ゼロで初の首位打者でもあった。だが、これで正田は「重い荷物を背負った」と頭を抱えることになる。
職人肌で目立たないタイプの正田だったが、タイトル獲得で取材陣が殺到、環境が一変して、これが重圧となって翌年は開幕から低迷する。それでも着実に自分の打撃を取り戻すと、開幕から安定して安打を量産していた大洋の
パチョレックをしのいで、打率.340で2年連続、初めて単独で首位打者に輝いている。
文=犬企画マンホール 写真=BBM