松永は「48」から、藤井は「38」から
一般的に強打者のナンバーという印象が強い「8」。
広島では
山本浩二の永久欠番で、同じセ・リーグでは
巨人に現在の監督でもある
原辰徳がいて、ライバルの
阪神では1年目の
佐藤輝明が早くも才能を発揮している。
中日には“闘将”
江藤慎一、
ヤクルトには長距離砲の
大杉勝男、
広沢克己がいた。一方のパ・リーグでは
ロッテが
有藤道世ら“ミスター”の系譜だ。そのパ・リーグで最も古い歴史を誇るオリックスでは、強打もさることながら、俊足のイメージも強い。前身の阪急で“世界の盗塁王”
福本豊の「7」に続く背番号でもあり、機動力や守備力を誇った阪急の伝統は、チームがオリックス、ニックネームがブレーブスからブルーウェーブを経てバファローズとなろうとも、必ずや受け継がれているはずだ。
阪急の最後、そしてオリックスの最後に「8」だったのが松永浩美だ。松永といえば阪神で着けた「02」が異色すぎることもあり、「8」の印象が薄くなってしまった感もあるが、「02」だったのは1年に満たず、「8」だった期間のほうが圧倒的に長い。同時に、強打と俊足を兼ね備えたオリックスの「8」を象徴する選手でもある。
小倉工高を中退、練習生の扱いで入団して用具係などをしていた松永が最初に着けたのは「48」だったが、スイッチヒッターとして大成、支配下5年目の82年に初めて規定打席に到達すると、オフに「8」へと変更した。日本人の選手としては異色の強打もあるスイッチヒッターとしてポスト黄金時代といえる阪急を支え、82年から10年連続2ケタ本塁打、5年連続が2度という10度の2ケタ盗塁。82年と91年には2度のサイクル安打を達成、85年には38盗塁で盗塁王に輝いている。
松永が阪神へ移籍したのは92年オフ。その後継者となった藤井康雄も10年間と期間で松永に並ぶ。藤井は松永ほどの俊足はなかったが、松永をしのぐ強打を誇ったスラッガーで、まだチームが阪急だった87年に入団して、最初に着けたのは「38」だった。松永の移籍によって93年に「8」を継承。通算14本の満塁本塁打を放つなど、勝負強さも魅力だった。松永が阪急とオリックスを股にかけた「8」なら、ブルーウェーブの「8」といえるのが藤井だろう。藤井の存在により、オリックスの「8」は一般的な印象に近づいたともいえそうだ。
初期は捕手の背番号もバルボンで一変
2002年オフにチームひと筋の藤井が現役を引退すると、オーティズが2年、サイモンが1年と助っ人がリレー。近鉄の“消滅”でオリックスを経てドジャースへ移籍していた中村紀洋が復帰して1年だけ着けてから、近鉄で01年にシーズン55本塁打を放って当時のプロ野球記録に並んだローズが米マイナーからオリックスでプロ野球に復帰して「8」の後継者に。ローズは08年に118打点で打点王に輝き、09年までプレーを続けている。
21世紀に入って強打の助っ人がインパクトを残したが、この2021年に「8」を背負って歴代で最長の11年となる外野手の
後藤駿太は俊足が最大の持ち味。20世紀の阪急で「8」に俊足の印象を定着させたのも助っ人だった。初代の
島本義文は捕手で、38年に「2」となり、オフに応召して戦没。1年の欠番を挟んで2代目となった
池田久之も捕手だったが、やはり戦火に消えた。
阪急・バルボン
戦後は長く安定感を欠くも、池田に次いで5年を超えたのが二塁手のバルボン。のちに通訳としても名を馳せた(?)陽気な好漢だ。来日1年目の55年から「8」を背負ったバルボンは、1年目からリーグ最多の163安打を放って49盗塁、翌56年には自己最多の55盗塁、58年からは3年連続で盗塁王に輝き、優勝とは無縁で“灰色”の時代にあった阪急を引っ張り続ける。61年オフに助っ人の印象が強い「4」へと変更した。
その後は
早瀬方禧、
小松健二と外野手が7年ずつ着けている。早瀬は67年に正右翼手として初のリーグ優勝に貢献。小松を含む大型トレードで77年に中日から来て「8」を継承した
島谷金二は安定感と勝負強さを兼ね備えた打撃で開花、正三塁手として黄金時代の後半を支えている。島谷は82年いっぱいで現役を引退。その後継者が、同じく三塁手の松永だ。
【オリックス】主な背番号8の選手
バルボン(1955〜61)
島谷金二(1977〜82)
松永浩美(1983〜92)
藤井康雄(1993〜02)
後藤駿太(2011〜)
文=犬企画マンホール 写真=BBM