「心の中で宮井さんは永遠に生き続けています」
早実は1957年春のセンバツ甲子園で初優勝。初めて栄冠の優勝旗が、箱根の山を越えた。
当時の2年生エース左腕・
王貞治氏(ソフトバンク球団会長)は65年前の写真を、懐かしそうに、いつまでも見入っていた。高知商高との決勝後、宿舎で指揮官を囲んでの歓喜のシーンである。
「こんなこともあったんだな……」
早実、中大の監督を務め、2020年8月7日に肺がんのため死去した宮井勝成氏(享年94)をしのぶ会が1月15日、東京都内のホテルで行われた。
王球団会長にとって、宮井さんはかけがえのない恩師である。この日は発起人を務めた。約300人が参列。コロナ禍のため、出席を断念した関係者も多かったという。
「世の中が動きにくい状況で、(平常であれば)どれだけの人が並んだか……。(天国にいる)宮井さんも(この情勢を)受け入れている。心の中で宮井さんは永遠に生き続けています」
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ソフトバンク・王球団会長は1月15日に行われた「宮井勝成さん偲ぶ会」で、思い出の写真を手にした
そして、こう続けた。
「高校3年間、お世話になりましたが、卒業後のお付き合いのほうが、私の人生で大きな影響力がありました。真面目一辺倒ではダメ、優しいだけではダメ。強くないといかんと教わりました。何か困ったときは、宮井さんならどう考えるか。それほどの存在でした。宮井イズムを、若い人につないでいきたい」
教え子の多くは「オヤジ」「オヤジさん」と呼ぶ。監督という枠を超越した存在だった。
厳しさの中にあった愛情
宮井さんが慕われた理由は、3つある。
口癖は「バカヤロウ!!」。親しみを込めたあいさつであり、自身の教え子として信頼し、認めた証拠でもある。会うたびに、そう言われることが楽しみなOB・OGもいた。
中大総監督時代に指導を受けた
巨人・
阿部慎之助一軍作戦兼ディフェンスチーフコーチは「思い出? 『バカヤロウ!!』しかない(苦笑)。俺の名前が『バカヤロウ』かと思ったほど……」と振り返り「照れくさそうにする顔が、かわいいんです」としのんだ。
そして、関係者が口をそろえるが「記憶力の良さ」だ。中大時代の1979年に大学日本一を経験した
ヤクルト・
小川淳司GMは明かす。
「私の仲人でもあるんですが以前、娘がオランダへ行った際に、宮井さんは『世話できる人がいるから』と現地の方を紹介していただいたんです。その後も、ことあるたびに『娘はどうした?』と声をかけてくれました」
過去の記憶が鮮明。もちろん、相手校の分析など、ベンチワークで生かされたことは言うまでもない。宮井さんには早実、中大を通じて多くの卒業生がいるが、OB・OGの名前もしっかり覚えていた。そして試合の場面、練習での一コマも忘れない。関わる人からすれば「興味を持ってくれている」という証しであり、これほどうれしいことはない。
3つめは我慢である。ヤクルト・小川GMは学生時代のエピソードを明かす。
「大学4年間、大した成績を残していないにもかかわらず4年間、使い続けてくれました。(指導者の立場となり)成績が出ない選手を使い続けるということの大変さは、並大抵ではないと分かります」
厳しさの中にも、愛情がある名将だった。選手への熱血指導だけでなく、マネジャーや学生コーチなど、裏方への心配りも忘れなかった。晩年も早実、中大の試合は現地で観戦。温かい眼差しで、後輩のプレーを見守った。
約300人の参列者は皆、家路につく際、心の中でこう言っていたはずだ。
オヤジさん、ありがとうございました!!
ゆっくり休んでください!!
文=岡本朋祐 写真=榎本郁也