ドラフト外の“出世頭”は秋山幸二?
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78年にドラフト外で指名され巨人に入団した鹿取
1978年の秋、
江川卓との契約(?)をめぐって、最終的にドラフトをボイコットした巨人。65年の秋に初めてドラフトが開催されたときには、すでにプロ野球は12球団となっていたが、以降21世紀の現在に至るまで、1球団でも欠けたドラフト会議は、後にも先にも78年の第14回しかない。それほどの異常事態だったということになる。ちなみに、巨人は自らがボイコットしたドラフトを会議の当日に無効と提訴。紆余曲折を経て江川の獲得には成功した巨人だったが、さすがにドラフト無効の提訴は却下されている。
現在の感覚では、ドラフトをボイコットしたら翌シーズンへ向けての補強はトレードやFA選手の獲得のみになってくる。ただ、当時はFA制度がなかった一方、「ドラフト外」で新人を獲得することも可能だった。ドラフトの“裏技”とでもいうべきか、資金力に余裕がある球団は多くの選手をドラフト外で獲得。“出世頭”は81年に
西武へ入団した
秋山幸二になるだろうか。これには“寝業師”と評された
根本陸夫監督が進学を希望していた秋山に直談判、まさに“寝技”があったというが、それ以前にも西武は
松沼博久、雅之の兄弟をドラフト外で獲得しており、西武はドラフト外に“強かった”印象がある。さらには、77年のドラフトで巨人の前に江川を指名したクラウンの監督も根本だった。就任したばかりだったが、もし根本が監督になっていなければ、その後も含め、歴史は大きく変わっていた気がする。
78年の巨人もドラフト外で10人もの選手を獲得している。ほかと比べてドラフト外での獲得が多い巨人だが、このときの12人は最多で、その中の1人が
鹿取義隆だった。日米大学野球で江川と同じユニフォームを着たこともあった鹿取。巨人の背番号も鹿取が「29」、江川が「30」で、江川を「同世代のヒーロー」と称賛する鹿取は「同じサイドハンドの小林(繁)さんが江川さんとのトレードで
阪神に行ったのも幸運でしたね」と振り返る。鹿取は
王貞治監督の時代を中心にリリーバーとしてフル回転。89年オフに秋山がいた西武へ移籍して、やはりリリーバーとして黄金時代の一翼を担った。
文=犬企画マンホール 写真=BBM